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【沖縄戦:1945年6月22日】第32軍各兵団長、参謀ら自決 米軍、沖縄戦勝利を記念し国旗掲揚式おこなう 昭和天皇、内々に終戦、講和の検討を指示

藤岡師団長、中島旅団長の自決

 この日未明、摩文仁司令部近くで最後の抵抗をつづけていた第62師団長藤岡武雄中将および歩兵第63旅団長中島徳太郎中将だが、兵団の運命は尽きたとして自決し、各兵団の参謀長以下幕僚たちもつづいた。また独立混成第44旅団および軍砲兵隊が昨夜総員斬込みをしたとの報告が軍司令部にもたらされた。
 昨日、摩文仁司令部近くの集落に米軍部隊が侵入し陣地構築作業中であることを発見した司令部衛兵は、一個小隊を派遣しこれを撃退し奪回した。

 奇怪なことに、数十名のわが同胞の一群が、防空服らしい一様の服装に身を固め、敵戦車に続行して、摩文仁部落に侵入、部落周辺に陣地を構築し始めた。あり得べからざることだ。歩哨の報告を信用する者はない。しかし誰が代わって見ても間違いはない。並みいる将兵皆切歯扼腕して憤激した。──終戦後、確かめたところによると、彼らは敵のため、陣地を構築したのではなく、日本軍戦死者の埋葬や、重傷者の収容にあたったのが事実だったらしい。
 軍司令部の直接防衛は、軍管理部長(高級副官)葛野中佐の担任である。彼は、今夜松井少尉の指揮する一小隊を派遣して、摩文仁部落を奪還するに決した。敵のため働く者は、同胞といえども容赦はしないと皆激昂している。[略]この夜、松井は敵の後退に乗じ、一戦も交うることなく、摩文仁部落を占領した。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)
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最後の攻撃をする米海兵隊第15連隊第4大隊の砲兵隊 45年6月22日撮影:沖縄県公文書館【写真番号84-17-1】

 こうして摩文仁集落に展開した司令部衛兵の松井小隊だが、この日早朝より米軍の射撃をうけた。数時間にわたる銃撃戦の末、正午ころ銃声がやみ、軍司令部は松井小隊が全滅したと推測した。
 その1時間後、軍司令部壕の垂直坑道の衛兵が米軍に急襲され全滅、その後に米軍の爆薬や手榴弾が壕内に落とされ多数の将兵が死傷した。なお、このころにも摩文仁司令部には司令部要員の世話をする女性が複数いたが、この時の攻撃で何人かの女性が犠牲になっている。また八原高級参謀は戦後、この時の米軍の攻撃で負傷した司令部内の女性がその後軍医により腕の動脈を切開されていたが、それは青酸カリの注射をされるためであったろうと回想している、
 第32軍の「玉砕」計画は、司令部要員で摩文仁の丘頂上を占拠し、摩文仁集落に向けて総員斬り込みをおこない、これを見届けるかたちで牛島司令官および長参謀長が自決するというものであったが、夜半に至り頂上の奪回を断念し、両将軍は海岸側の副官部出口で自決することに決まった。
 両将軍の自決にあたっては21日、軍司令部佐藤経理部長も同道することになった。

 日が暮れるとともに、断崖下の洞窟にいた佐藤軍経理部長が、部員政井主計少佐に援けられて、司令部洞窟にやってきた。参謀の出撃で空席ができたので、そこに起居するためである。彼は、軍参謀長が司令官のおともをして自決されるはずだと聞くや、ほろりとして、暫し言葉がなかったが、「私もおともしましょう。ああこれで胸がすっとした」といかにも安心した面持ちである。白髪禿頭、美髯のこの大佐は、軍参謀長と陸士同期の無二の仲良しで碁仇き、口仇きの間柄であった。その最期の決意の神速で淡々たるを見て、私は、死を見ること帰するが如しという言葉があるが、真にこの人のことであろうと思った。
  [略]
 経理部長は、刻々迫る死のことなど忘れたかの如く、よもやまの話に打ち興じた。談、家庭のことに移ると、長男は幼年学校に在学中で、三人の娘はそれぞれ前途有為の青年に嫁しているので、思い残すことはさらさらないと語り、真から満足そうだ。

(上掲八原書)
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慶良間洋の米艦船カーティス艦上での戦死者の葬式 45年6月22日撮影:沖縄県公文書館【写真番号84-17-1】

米軍による国旗掲揚式

 この日、米第10軍本部では、第10軍の二個軍団、各師団の代表が整列し、軍楽隊による米国歌の演奏のなか、米国旗が掲揚された。
 国旗掲揚式自体は司令部などでも日常的におこなわれていただろうが、これだけ多数の参加者や師団の代表など有力な軍人が参加し、軍楽隊による演奏をもっておこなわれた国旗掲揚式は、そうはなかっただろう。いうまでもなく、長く、そして過酷であった沖縄戦の勝利を記念する意味が込められた国旗掲揚式であったはずだ。
 そして、その場で沖縄が米軍の管理下にあることが公式に発表され、翌23日より米軍は掃討戦を展開することになるのであった。

 六月二十二日の朝、米第一〇軍本部では、第一〇軍の二軍団、各師団の代表が整列、軍楽隊が“星条旗はひるがえる”を奏でる中を、軍旗護衛兵がおもむろに沖縄島の上に米国旗をかかげた。旗が上がり、ポールのてっぺんまできたとき、突然、一陣の微風が、さっと吹いて、旗はぱっと広がり、静かな青い空を背景にはためいた。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)
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この日の国旗掲揚式 沖縄が米軍の管理下にあることが発表された 45年6月22日撮影:沖縄県公文書館【写真番号14-22-3】

国内情勢

 先般の臨時議会で成立した国民義勇兵役法がこの日、公布された(戦史叢書『大本営陸軍部』<10>にはこの日公布とあるが、実際には23日公布と思われる)。
 同法では15歳から60歳までの男子、17歳から40歳までの女子を必要に応じて正規の軍人ではない兵士として国民義勇戦闘隊に編入し、戦闘に参加させることが可能になる。部隊の運用や指揮はすべて軍が担い、義勇召集を拒否することは許されていない。
 まさしく一億玉砕を鼓吹した本土決戦に向けた対応であるが、こうした措置は、すでに沖縄戦における「根こそぎ動員」というかたちで先行的に実施されていたことはいうまでもなく、本土全体での「根こそぎ動員」が国民義勇兵役法である。
 そして、沖縄戦における「根こそぎ動員」によって集められた「兵士」たちは、弾薬運搬などの戦闘のみならず、斬り込みといわれる爆雷を抱えて米軍戦車に潜り込むといった事実上の自殺、自爆攻撃まで命じられたのであり、当然、本土でも「根こそぎ動員」による「兵士」はそのような戦闘を命じられたことであろう。
 また21日には、帝国議会の権限を停止し、内閣に独裁的な権限を与える戦時緊急措置法が公布された。政府が戦争遂行のため緊急の必要があるときは、ありとあらゆるものを議会によらず独裁的に措置できる法律であった。
 一方で、昭和天皇はこの日、最高戦争指導会議の構成員を招き、戦争の終結について従来の観念にとらわれず、早急に具体的に研究し、これを実現せよと述べた。鈴木首相は仰せの通り実現するとし、海相、外相もおよそ同意、参謀総長は慎重を要するとしたものの、大筋で同意した。
 こうした昭和天皇の御沙汰をうけ、かねてより駐日ソ連大使のマリクと交渉を重ねていた広田元首相に対し、外相は23日、マリクとの交渉を促進させるよう指示した。
 また昭和天皇はこの日、鈴木首相と面談した。鈴木首相はその場で昭和天皇に沖縄の将兵および官民への詔勅をいただきたいとの意見を述べる。これは26日発表の沖縄に関する内閣告諭につながっていく動きであろう。
 なお、この日の大本営「機密戦争日誌」には次のように記されている。

 昭和20年6月22日 金曜
  [略]
三、沖縄終戦ニ伴フ報道宣伝ニ関シ省部ノ意向ヲ一ニシタル後海軍及内閣ニ連絡ス。 廿六日朝刊ニテ発表トス。
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)
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激しい空襲をうけた沖縄 空母艦載機からの空中写真 45年6月22日撮影:沖縄県公文書館【写真番号114-24-2】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・戦史叢書『大本営陸軍部』<10>
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第11号(琉球新報2005年6月23日)
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
・『昭和天皇実録』第9(東京書籍)

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第32軍の最後の司令部壕があった摩文仁89高地での国旗掲揚式 米軍首脳部が参列した 45年6月28日:沖縄県公文書館【写真番号05-03-2】