【沖縄戦:1945年5月18日】米軍、シュガーローフ制圧 体の震え、排泄物の垂れ流し、機関銃の乱射……多発する米兵の戦闘神経症
シュガーローフ・ヒルの戦い
シュガーローフ・ヒルでは早朝より日米の争奪戦が繰り広げられ、砲迫撃の集中と戦車を伴う強力な攻撃により、米軍は午前10時ごろシュガーローフ頂上付近を占領した。同地を守備する独立混成第15連隊第1大隊(野崎大隊)はこの日夜奪回逆襲をおこない、米軍を頂上付近から一時撃退したが、死傷者を多数出し翌19日未明にはシュガーローフから撤退した。
五月十八日、第六海兵師団の第二九海兵連隊のD中隊は、巧妙な協同作戦により、これまでに得た有利な地歩を利用して、ついにシュガー・ローフ陣地の徹底的な攻撃に成功することができた。D中隊指揮官メイビー大尉は、十八日の朝、シュガー・ローフ北側の低くなったところに兵を回し、砲兵隊が目標に猛烈な予備砲撃を加えた。それが終わると同時に、戦車三輌がシュガー・ローフの東斜面に回り、日本軍が予定どおり反撃を加えようと、洞窟から飛び出そうとするところを待ち構えて、激しく撃ちまくったのである。
安里の北部丘陵シュガー・ローフの洞窟から、日本軍が二隊にわかれ爆雷をかかえて米軍戦車をめざして飛びだしてきた。
戦車隊はこれを撃ち倒したのち、後にしりぞいた。
メイビー大尉はロケット弾を猛射せよと命令、ロケットを積んだトラックが低地のところまで進撃してきた。ここでミサイルを発射して、やっと日本軍の砲火からまぬかれることができた。海兵隊は再度前進を試みた。すると日本軍はまたもや猛烈な砲火で応酬してきた。
そこで一小隊は、ふもとからそのまま隊を断ちきられぬように西側から丘を登っていき、一方、別の一小隊がまっすぐ北斜面を進撃して、両隊はほとんど同時に頂上をきわめた。その後、丘の向こう側にかくれている日本軍陣地を撃滅しようと進撃をつづけた。
シュガー・ローフの日本軍陣地は、午前九時四十六分、ついに海兵隊の手に落ちた。それから二、三分後、後方戦線にいたメイビー大尉は、先鋒の海兵隊から、「PX品を送ってくれ」との連絡をうけた。
まもなくメイビー中隊の全中隊も峰の上まできて、ひるごろまでには負傷兵も後方に移送され、前線は完全に確保されたのである。
[略]
(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)
ハーフムーン・ヒル(別称:クレセント・ヒル)を守備する独立混成第15連隊第3大隊は、米軍の猛攻をうけながらも同地南側の陣地を保持するとともに、この日夜、米軍に包囲されていた連隊砲陣地の救出攻撃を実施し、連隊砲中隊、速射砲中隊の各中隊長を救出した。
「血塗られた丘」「長く、血塗られた、ギブ・アンド・テイクの戦い」「地獄の一週間」といわれたシュガーローフ争奪戦はついにここに終わることになる。なお「地獄の一週間」とは米軍が不意に(あまり深い意図はなく)シュガーローフに近寄り日本軍の猛攻撃をうけ多大な損害を出した12日を起点にした表現だろうか。
この戦いでは11回にもわたり攻守が入れ替わり、1日で4回も頂上の攻守が入れ替わった日もあったそうだ。海兵隊はこの戦いで約2600人もの死傷者を出し、約1300人もの戦闘神経症発症者を出したといわれている。戦闘神経症については後述する。
海兵隊員として従軍したシュガーローフの戦いについて証言するカール・ブラザーズさん:NHK戦争証言アーカイブス
シュガーローフに接近している海兵隊員が、高台で足留めを食らっている 45年5月18日撮影:沖縄県公文書館【写真番号88-05-3】
その他の戦況
首里司令部北方の大名高地では、守備隊の独立歩兵第22大隊第2中隊が「タマリ戦法」と呼ばれる米軍を陣地内にあえて引き込んでから攻撃する戦法を用いて善戦した。第一線陣地をあえて敵に突破させ、その後ろの第二線陣地と第一線陣地で挟撃するというタマリ戦法について、同大隊松田第2中隊長は戦後、これは大陸での遊撃戦の教訓から得た戦法だと回想している。
末吉南側地区では第2歩兵隊第3大隊や独立歩兵第13大隊庄子隊、同第22大隊第3中隊、独立機関銃第14大隊などが米軍の攻撃をうけたが、これを撃退した。
第62師団長は首里司令部東方の赤田町付近に配置されていた同師団輜重隊を首里司令部西方の松川方面(現在の沖縄県立沖縄工業高校付近)に移動させ、シュガーローフ・ヒル制圧後の安里・首里司令部西方の防備を強化した。
首里司令部北東の石嶺高地に配置されていた戦車連隊は多大な被害をうけており、戦力は四分の一、砲兵も1門のみとなった。戦車連隊長は特設第4連隊の第2大隊を第一線に配備して陣地強化をはかった。
石嶺東方の130、140、150の各高地は戦車を伴う強力な米軍の攻撃をうけ、終日激戦となった。130高地は馬乗り攻撃をうけ、独立第29大隊を基幹とする守備隊は洞窟陣地に籠って抵抗した。140、150高地は背後に進出した米軍戦車に攻撃され、各頂上付近は米軍に占領され苦戦し、140高地の洞窟陣地は馬乗り攻撃をうけるに至った。150高地の伊東大隊は対戦車火器もなく、擲弾筒で応戦した。
首里司令部東方の運玉森(コニカル・ヒル)方面では、同高地北西の高地や運玉森頂上で米軍と近接戦が繰り広げられた。運玉森東側の米軍は、南方に進出し、守備隊の右側背に迫ろうとしたため、同方面を守備する歩兵第89連隊第3大隊は米軍の南進阻止に努めた。
特にコニカル・ヒルでは、米軍がヒモのついた手榴弾を投げ、兵士の体にヒモがからみつき、手榴弾をよけたり遠くに蹴り出して排除することなどできないまま日本兵が爆死することもあったという。
運玉森での戦闘、特に手榴弾戦や手榴弾についているひもが体にからみつき爆破するという壮絶な状況を証言する伊礼進順さん:NHK戦争証言アーカイブス
第22海兵連隊戦線の左側に位置するシュガーローフの眺望 45年5月18日撮影:沖縄県公文書館【写真番号85-36-4】
軍の戦況報告
第32軍はこの日19時の戦況を次のように報告している。
球参電第六六二号(十八日二三一五発電)
一 朝来依然トシテ運玉森、六〇・五高地、一五〇高地、石嶺北方高地、大名、末吉、五七・三高地、真嘉比、五一・七高地各拠点陣地ニ於テ戦闘中ニシテ右翼方面ニ於テハ一五〇高地ハ昨夜奪回セルモ〇九〇〇頃再ヒ敵ニ馬乗リセラレ本日ノ戦闘焦点ハ該方面ニアリ
大名以西ニ於テハ既ニ攻勢ハ一時頓挫セルモノノ如ク概シテ緩慢ニシテ□□□[判読不能]戦車数輌乃至十数輌若干歩兵ヲ伴ヒ各陣地ニ対シ破壊射撃ヲ実施セリ
二 独立混成第四十四旅団ノ天久台陣地ハ一時危急ヲ告ケタルモ真嘉比以西功名ナル反斜面陣地ノ作用ヲ呈シ我カ砲兵ノ同台上ニ対スル猛威ト第一線ノ健闘ニ依リ昨日来小康状態□□[判読不能]
三 軍ハ海軍編成ノ二箇大隊ヲ混成旅団ニ兵器廠及兵站部隊編成ノ各一大隊ヲ第二十四師団ニ配属、軍総予備トシテ兵器廠編成ノ一連隊ヲ津嘉山附近ニ掌握シアリ
(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)
日本軍陣地を爆撃する105ミリ榴弾砲 45年5月18日撮影:沖縄県公文書館【写真番号84-03-2】
米軍の新作戦企図を警戒
第32軍はこの日夜、米軍の増援部隊に関して次のように各部隊に参謀長電を通報した。
諸情勢ヲ綜合スルニ敵ハ沖縄方面ノ現戦況ニ関連シ二十日前後沖縄本島方面ニ対シ強力ナ増援乃至奄美島就中喜界ヶ島状況ニヨリ先島方面等ニ新ニ上陸ヲ開始ノ算大ナリ ソノ兵力ハ二箇師団内外ト推定ス(中央緊急放送)
(同上)
これをうけて徳之島の独立混成第64旅団高田利貞旅団長は翌19日未明奄美全地区に甲号戦備を発令し、対上陸戦闘を準備した。
30口径水冷却機関銃に弾薬を詰めるクラーク上等兵 45年5月18日撮影:沖縄県公文書館【写真番号03-89-4】
新聞報道から
大阪朝日新聞はこの日、沖縄の戦況を次のように報じている。
戦勢楽観を許さず、帰趨を決すこと数日
沖縄本島における陸上戦闘はここ数日来敵の攻勢は急調となり、戦局決して楽観を許さぬ事態に至っている、即ち那覇、首里両市の北方並に我謝を結ぶ東西四十キロの全戦線に第七師、第七十七師、海兵第一師、海兵第六師計四個師の全兵力を投入した敵は本島内に敵が獲得した北、中飛行場からの基地空軍の協力下にわが主陣地に対し全面的な総攻撃に出で殊にその主力が首里、那覇の中間地区を指向しているものの如く敵は戦車群を先登に遮二無二我が陣地線に滲透し来り、目下那覇市北辺をめぐる彼我の戦線は犬牙錯綜して血みどろの激戦を展開中である。
[略]
(『宜野湾市史』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)
オーブンでビスケットを焼く準備をする第1878工兵航空大隊の2人の「パン屋」 45年5月18日撮影:沖縄県公文書館【写真番号16-18-3】
頻発する戦闘神経症
激戦が続くなかで、米軍ではこのころより戦闘神経症(戦闘疲労症、戦場神経症)を発症させる兵士が続出した。シュガーローフ争奪戦だけで1289人もの兵士が戦闘神経症を発症させたといわれる。
戦闘神経症の症状は体の震えなど運動機能のマヒ、延々と泣き続ける涕泣、無言、無表情、排泄物の垂れ流し、機関銃の乱射などの異常行動があげられる。ある証言では、兵士たちは戦闘神経症をバーン・アウト症候群と呼び、それは多くの場合は奇妙な行動をとるというよりも、あたかも機械が壊れたかのようにぷつりと人間としての機能が停止したような症状と表現している。
シュガーローフ・ヒル付近で撮影された戦闘神経症を発症させた兵士の映像 体の震えや涕泣という典型的な戦闘神経症の症状があらわれている:NHK「沖縄戦全記録」より
兵士が神経を病む原因としては「鉄の暴風雨」といわれるほどの猛烈な砲爆撃、シュガーローフ争奪戦に象徴されるような白兵戦・肉弾戦の連続、そして泥濘と豪雨、腐乱した死体、血、汚物、ウジ、ハエなどの壮絶な周辺環境などが考えられるが、そればかりでなく戦友の救出の失敗や民間人への誤射に対する自責の感情、無謀な命令への失望なども戦闘神経症を引き起こしたといわれる。
米軍は5月末の時点で海兵隊で6300人、陸軍で7700人の戦闘神経症患者を出した。米軍は兵士の戦争神経症に対応するため精神科医の対策チームを派遣し、特別の野戦病院(第82野戦病院)を北谷町に設置した。
初期治療は良好な結果をもたらしたようで、比較的多くの患者が早めに回復し、任務復帰するなどしたが、一部の者は病症が重く、サイパンなどに後送される場合もあり、なかには生涯病症が回復せず、市民生活に復帰できなかった兵士もいたようだ。また戦後も兵士たちは精神的負担によりPTSDを発症し苦しめられることもあった。
第二次世界大戦全体で米軍は約2500万人の兵隊のうち約70万人が戦闘神経症を発症させたともいわれている。
シュガーローフではないが、沖縄で戦闘神経症を発症させたと思われる戦友について証言するエド・ホフマンさん:NHK戦争証言アーカイブス
なお戦闘神経症は日本兵も例外ではない。八原高級参謀は米兵の戦闘神経症に触れ、「日本軍にはそうした症状を発症する者は稀であった」との趣旨の回想をしているが、それは司令部にいた者の弁であり、戦闘神経症に対して実質的に何らの処置もしようとせず、意識もしなかった軍首脳の弁でしかない。
精神的な混乱、朦朧とした状態、記憶の喪失、異常な興奮、失語、自傷、体の震え、壕を飛び出して戦場をさまようといった異常行動など、明らかに戦闘神経症と思われる症状を発症させた日本兵や住民の姿が多数目撃されている他、米軍の捕虜尋問調書などに記録されている。
第32軍の長参謀長自体が睡眠中、子どものころに母親にせっかんされる夢を見ているようで、「かあちゃん痛い」といった寝言をいっていたとされる。戦闘神経症とまでいえるかどうかはともかく、かなり精神的に追い詰められている様子が見て取れる。
なお日本軍の戦闘神経症については、ガダルカナルやサイパンなどで捕虜となった日本兵の尋問調書などにも記録されている。
沖縄の子供の助けを借りて子ヤギにミルクをやる米兵たち 45年5月18日撮影:沖縄県公文書館【写真番号05-07-4】
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・保坂廣志「沖縄戦の心の傷(トラウマ)とその回復」(琉球大学『人間科学』第8号)
・同「沖縄戦の記憶─戦争トラウマとそのかたち」(同第12号)
・同『沖縄戦捕虜の証言─針穴から戦場を穿つ─』(紫峰出版)
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
・「沖縄戦新聞」第10号(琉球新報2005年5月27日)
トップ画像
シュガーローフ争奪戦から帰還した海兵隊機関銃部隊の兵士たち 45年5月:沖縄県公文書館【写真番号80-23-3】