『華厳経』睡魔・雑念 格闘中23
注:画像は、国立文化財機構所蔵品統合検索システム
(https://colbase.nich.go.jp/)
の”箱書:法隆寺金堂所置玉虫厨子須弥壇画”の一部を切り取って利用
「金剛幢菩薩〔十〕回向品」 ― 回向について 後編 ―
前編にも示したが、この「金剛幢菩薩回向品」は、他の品と比べ、文章量が多く、事細かに、さまざまな例を挙げて、回向について説かれているのであるが、そのうち大部分を、布施(施与)についての説法が占めているのである。そして、そこには、眼・耳・鼻はもとより、爪や髄までも、請われるに従い、それを与える姿が描かれており、更には、囚人の身代わりにもなろうというのである。
その様子は、法隆寺の玉虫厨子に描かれている、捨身飼虎図で有名な、飢えた虎の母子を哀れみ、自分の身を与える話を連想させる。与えられるものは、自身の身体・命までといった、徹底的に理想的な菩薩の姿である。この覚悟について、「金剛幢菩薩回向品」では、次のように説かれている。
宗教的な理想とは言え、ここで説かれているようには、なかなか、惜しむ心無しに、人に施すというのは、難しい。お金にしろ、物にしろ、情けないことに、「あげなければ良かった」や、「もう少し少なくとも良かったか」など、情けないことに、後悔というものが、湧いて来てしまうのである。あげたら、そのことは、すっぱりと忘れ、うじうじと「あの人はお返しも寄こさない」などと、考えないに越したことはないのではあるが、悲しいことに、なかなかそうは成れないものである。
初期の仏教の於いては、布施は、出家者に対して行うことにより、布施した側は、来世で天に生まれることができるということを方便の一つとしていたと言われている。では、大乗に於いて、”自利利他”が理想のはずであるが、布施される側は、利益を得るとして、布施する側には一体なにが利益となるのであろうか。
それに対して、『大智度論』では以下のように説明されている。
ここでは、布施を行うことで、貪欲(むさぼる心)を捨て去ることが期待されている。物やお金、地位や名誉、得ること自体は罪ではないのであろうが、私たちは、それがエスカレートしてしまいがちなのである。「もっともっと」という欲がどんどん出てきてしまい、仏教が嫌うところの、執着心が起こったり、心がそれに囚われた状態となってしまい、心の平安が乱されてしまうのである。
上手くいっている状態であれば、それはそれで、問題も少ないのかも知れない、しかし、上手く行かないことも多いであろう、そんなときには、心が散り散りに乱れてしまい、とても仏教が理想とする穏やかな状態とはいえないであろう。
薬師寺の、管長でいらした高田好胤さんは(当方の時代の京都方面の修学旅行ではユニークな説法をされることで有名であり、敢えて「さん」とお呼びしたい)は、有名な言葉を残されている。
「かたよらないこころ、こだわらないこころ、とらわれないこころ、ひろく、ひろく、もっとひろく」
口に出して、唱えてみると、これほど簡単なことは無いようにも思えるのであるが、簡単であるがゆえに、なかなかそのような心になって行かない。
道は遥か、険しいのである。
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