『華厳経』睡魔・雑念 格闘中49
「入法界品」 ⑧ 法宝周羅長者、普眼妙香長者
― 十波羅蜜:自分の都合を小さくする ―
今回取り上げる、2名が説く菩薩の行は、前の3名とは違い、より専門的な仏道修行である、十波羅蜜について、述べられている。
まずは、十波羅蜜とはなんであるかを、木村清孝先生の、『十住経』の解説
にて確認したい。
布施波羅蜜・・・惜しみなく施すこと
持戒波羅蜜・・・戒律をしっかりまもること
忍辱波羅蜜・・・耐え忍ぶこと
精進波羅蜜・・・努力し続けること
禅定波羅蜜・・・心を静める〔心に波風を立てない〕こと
智慧波羅蜜・・・諸法が空であることを確信すること
方便波羅蜜・・・現実化させること
願波羅蜜 ・・・智慧を求めること
力波羅蜜 ・・・邪見や諸魔を退けること
智波羅蜜 ・・・ありのままにすべてを知ること
※木村清孝校註,『新国訳大蔵経 十住経他 ⑤華厳部4』,
大蔵出版,2007,p.65 の注記を基に当方にてまとめた。
他の経などで説かれる菩薩の行である、上から6つ目までの六波羅蜜に加えて、”方便”、”願”、”力”、”智”の四つの波羅蜜が加えら得ている点が、『華厳経』で説かれる、十波羅蜜である。
では、ここまでの前提を基に、善財童子の旅の続きを見て行こう。
甘露頂長者が、自身の菩薩行のことを説き終わると、より南の師子重閣城には、法宝周羅という長者がおり、そこに行って、別の菩薩の行について、聞いてみてはどうかと、善財童子に告げるのであった。
法宝周羅長者 ― 十波羅蜜 楼閣のイメージ ―
善財童子が、法宝周羅長者の下にたどり着くと、長者は、善財童子の手を取り、自宅まで連れて行き、その外観を童子に見せるのである。
法宝周羅長者が、”諸仏菩薩、”善知識”を常に見て、正法を聞いて、回向している為に、このような楼閣を得たということを告げたのであった。〔三帰依:仏・法・僧の意味であろうか。〕
必ずしも、先に挙げた十波羅蜜と重なる訳ではないものの、楼閣の建物の最下層の説明に”布施”が表れ、第六層目にて”般若波羅蜜”が表され、神通(神通力)を経て、最上階の第十層目に、”如来”(完成)が示されている点は、重層的に積み重なっている楼閣のイメージを用いて、十波羅蜜を暗示していると言えるのではないだろうか。
普眼妙香長者 ― 十波羅蜜 治療のイメージ ―
そうして、自身の菩薩行のことを説き終わると、より南の実利根という国の普門城には、普眼妙香という長者がおり、そこに行って、別の菩薩の行について、聞いてみてはどうかと、善財童子に告げるのであった。
善財童子が、普眼妙香長者の下にたどり着くと、長者は、自身の菩薩行について、次のように述べるのである。
普眼妙香長者の場合は、病気とその治療をモチーフに、十波羅蜜が示されているといえる。
しかしながら、この文脈は、先の良医の善知識での文脈の方が相応しいのではないかと思えたのである。果たして、当初からの意図であったのか、写本や、伝播の間に入れ替わりなどがあったのか、残念ながら、原本が散逸している今、このことを確かめる術はないのであるが、今後の諸原本の発見を待ちたい。
十波羅蜜 ― 自分の都合を小さくさくする工夫 ―
十波羅蜜の各波羅蜜については、説明が不要なほど、端的にその行がなんであるかを、その語が示している。しかしながら、いざ実際に行おうとすると、困難さを伴うのである。まして、”波羅蜜”の原語が持つ、”完全性・完全に”といった部分にまで意識するとなると、尚更である。
しかし、御託だけならべて、実際に行わないよりは、完全性に到達しなくとも、まずは実際に一歩踏み出すということは重要であろう。
別なお経(『維摩経』)に関しての解説で、十波羅蜜についてではないものの(六波羅蜜に関して)、釈徹宗先生の以下の言葉に救われるのである。
釈徹宗先生がここで指摘されているように、自分の都合が小さくなればなるほど、こだわる部分が少なければ少ないほど、軽やかに過ごしていくことが出来るのであろう。とは言え、やはり、自分の都合が大切なのである。ここで、”都合を小さく”というところが、ほっとさせられる。
どうしたところで、自分の都合を一気に消すことは出来ず、また消してしまっては、自己というものの存在の意義が無くなってしまうような気がする、自分と、他者との折り合いのつけ方が大事ということなのであろう。
完全に出来ないまでも、”日々積み重ね”、”あくなき仏道の歩み”として、十波羅蜜の中の一つでも、小さな歩みの一歩でも意識して、釈尊の背中を追う為に、行って行きたい。