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『華厳経』睡魔・雑念 格闘中29

「十地品」 ― 遠行地・不動地(1)―  

 <無生法忍(空)について>

その名前が示すように、第七番目の遠行地(おんぎょうじ)、第八番目の不動地では、菩薩は遥かな高みに来ている。それを示すように、遠行地に在れば「他化自在天王(欲界の天の最高位)となる」とされ、不動地に在れば「大梵天(欲界をはなれた、色界の天)となる」と説かれ、すでに人とは呼べない段階に来ている。

それを裏付けるように、この2つの地(段階/ステージ)では共通して、”無生法忍”ということが挙げられている。

 「諸法の本来無生・無起・無相・無成・無壊・無来・無去・無初・無中・
 無後なるに入り、如来智に入りて、一切の心意識の憶相分別に、貪著(と
 んじゃく)する所無く、一切の法は虚の性の如し。是を菩薩無生法忍
 得て、第八地に入ると名く。」  
  
  〔旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第六巻,第一書房,1993,p.271

 何やら、謎々のような、『般若心経』を思い起こさせるような、”無”の文
 字が続く文言となっている。分かったような、分からないような説法であ
 るので、どこかに解説がないか探してみたところ、「十住品」と関連が深
 いと言われている、漢訳の『十住経』(『新国訳大蔵経 十住経他 ⑤華
 厳部4』)を当たってみた。その本の注記に於いて、木村清孝先生は、無
 生法忍を「の真実をさとり、そこに安住すること」(前掲書p.121)とし
 ておられた。

 無生法忍=空というところまでは、分かったものの、果たして”空”を本当
 に理解しているかというと、はなはだ心もとない。とは言え、この”空”ほ
 ど厄介なものはない。様々な祖師らが、また、仏教学の先生方が様々な意
 見を出されており、それぞれのご意見を読めば読むほど、皆目掴めないと
 いう状況になってしまっており、さらには、頭で理解するものでは無く、
 論理的な把握は不可能で、瞑想や、直接的な智に依ってしか理解できない
 とする先生もいらっしゃるのである。

 そんななか、これまで読んだ本の中で、端的に”空”を説明されている文章
 に出会ったので、以下、『華厳経』についてではなく、『般若心経』につ
 いて書かれたものであるが、少し長くなるものの、引用したい。

  「『空』という字を、小むずかしく哲学的にこねくりまわすものですか
  らいよいよわからなくなってしまうのです。〔中略〕『空』という字を
  静止的に、実体論風に考えずに、『空ずる』と動詞にか、からっぽと
  いう形容詞にうけとれば大きなまちがいはないのです。『色』をぎゅっ
  とにぎらずに、汗の出ぬように、ふんわりとうけとることが『空』で
  す。たとえば、自分の生命、体力、名誉というものを永久的のものと
  執せずに、今日一日のおあずかりもの、一期一会のものとしてうけとる
  こと、この悠々淡々たる生活態度が『空』です。〔中略〕何物にも執着
  しない生活態度を『空』というのです。」

村松圓諦,『般若心経講話 改定新版』,大法輪閣,1983,pp.129-130

村松圓諦先生の、この、「形容詞にうけとる」という表現が、本当にすっと胸に落ちた気がするのである。実体のような、固定化された、確固たるものではなく、形容する言葉によって、様々に変化してしまう、それが「空」というものだと・・・。

そうして、村松先生はさらに、その「空」の考え方をどのように、日々の生活に生かして行くのかも、「永久的のものと執せずに、今日一日のおあずかりもの」という表現で、丁寧且つ、また分かりやすく説明されている。

ついつい、私たちは、何かというと、ものごとを固定的に、決めつけてしまいがちであるのだが、そうではなく、「今日はやけにこの人は怒りっぽいなぁ」とか、「今日はやけに体の調子が悪いなぁ」とか、「今日は、こんな形容詞が付いた状態なのだなぁ」と思うことで、永遠にこの状態が固定的に続くという訳では、決してないと捉えることで、少し楽になるような気がするのである。

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