「生きたい」から死ぬのだ
唐突ですが、私は双極性障害……要するに躁鬱を患っています。
そんでもって、今は躁鬱の鬱があまりにも激しい状況でして。
どれくらい酷いかというと、昨日自殺未遂をして病院に連れて行かれました。
今少しだけ冷静になってこうしてnoteを書けているのですが、それはせめて今の自分を記録に残しておこうということによるものです。
さて、みなさん唐突ですが。
自殺しようとしている人は、どうして自殺するのだと思いますか?
現実の問題に対応できなくなった逃げの一つ、もあるでしょうし、精神的に限界を迎えて意識が死に向かってしまっている、ということもあるでしょう。
ただ、これらはあくまでも表面的な、かつ他者によるものの見方にしか過ぎません。
それでは、実際に自分で命を絶とうとするその時、当事者は何を考えているのでしょうか。
これはあくまで私の場合は、ですが、
「生きたい」から死ぬ
のだと思います。
生きると死ぬ。まるで相反しているように見えますが、これは線でつながっているものなのです。
私は今こうして酷い鬱状態の中で記事を書いているのですが、この時の私は、自身の生きる意味を見失い、ただ呆然と虚無感と焦燥感に襲われています。
私が自殺未遂をした時。袋を頭からかぶって、いざ首を絞めた時。そのときに感じたのは、「ああ、自分は今も生きているんだ」という、生の実感でした。
これを、死へと向かう「内向きの生」とすると、死へと向かう「外向きの生」というものもあります。
死へと向かう「外向きの生」とは、自分の生存する意義を他者に認めてもらいたい、という欲求だと思います。
いざ自殺しようとした時。その時の私は、自分は(人並みの考えですが)生きる意義を感じない、生きていてもしんどいだけだ、無駄である、虚しいだけだ……そんな感情に苛まれていました。しかし、首を絞めた時、首を絞める力が抜けて倒れ込んだ時。友人に無意識に助けを求めていました(本当にごめんなさい、そして反応してくれてありがとうございます)。
本当に厄介で醜い感情ではあるのですが、自分が死のうとしていることを他者に見てもらえること、そして(時として)彼らに止められたり、自分の生を受け入れてもらえたりすることを通して、自身の生の意義を実感することもあるように思えます。
自分で自分の生の意義を見いだせない時、他者にそれを求めてしまう。
「生きたい」という気持ちは根底にありつつも、自分の生を自分で認められない。だから、人に認めてほしい。
そんな感情なのかと思います。私自身なんとなくでしか書けていませんが。
最後になりますが、あくまでもこれは私自身の実体験です。
自殺へと向かう感情は、「死にたい」だけの感情ではないのかもしれません。「生きたい」から自殺を選ぶ。なんてこともある。なんとめんどくさいことか。
そして、そんな私を受け止めてくれる人がいることに、感謝してなりません。
いつか、私は人に生の意義を求めずとも、自立して生きていけるようになりたいと願う日々です。