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森博嗣『喜嶋先生の静かな世界』読んでみた
森博嗣の小説は読んだことがなかった。
もちろん毀誉褒貶の毀とか貶ばっかりだった押井守による『スカイ・クロラ』の映画化は何度も見た。
各方面でボロクソ言われたが、私は面白いと思ったのだ。当時は押井信者だったからかもしれないけどね。しかし以来、いつか森博嗣の小説は読んでみたいと思っていたのだ。
最近、この小説が大変エモいという有力な情報を入手したので読んでみた。
なんと英訳のほうがだいぶ安いじゃないか、なんでや。
めんどくさいので日本語のほうを購入。
内容は主人公が喜嶋先生の下で工学部4回生、大学院生として研究者として目覚めていくというものだ。先生と若い男、女性問題、そして自死と、夏目漱石の『こころ』を想起させる。解説で養老孟司氏も指摘しているところだ。そりゃエモくなるわ。
主人公はおそらく著者自身がモデルだろう。そして多くの登場人物も実在人物をモデルにしていると思われる。
喜嶋先生は研究者としては有能だが、キャラがアレで万年助手(いまでいう助教)だ。
主人公は1日17時間を費やすほど研究に没頭し、やがて出世していく。そして出世していくと政治的なことに時間を取られて研究者としては終わっていくのだ。喜嶋先生がいつまでも助手なのは研究に関わっていたからかもしれない。
主人公が研究者として急激に成長していくにつれ、喜嶋先生との距離はどんどん縮まっていくのだが、一人前の研究者になったところで立場は対等になり、距離を置くようになる。この関係性の変化がめちゃくちゃエモい。
私も一時期研究の真似事をしていたのでわかるが、研究ってのは面白いが辛い。学部までは既知のことを整理するだけだが、院に上がると未知のテーマに取り組まないといけない。そしてはじめのうちはテーマは与えてもらえるが、いつかは問を立てることから始めないといけなくなる。
実験がうまくいかないときも誰も正解を知らないから途方に暮れてしまう。PC自作の比ではない。立てた問に答えがあるかどうかさえわからない。
普通の双六なら、フリダシがあればアガリが必ずあるが、そんな保証も研究にはない。双六のように道筋は示されていないから、戻ったともいえない、いつも、常にフリダシかもしれない。
結果が出なくてやめてしまう人もたくさんいる。企業に就職する人もいる。そうした研究者が別れの挨拶に「今までの経験を活かして」と言ったときの喜嶋先生のセリフが最高である。
「そんな経験のためにここにいたのか」
これを聞いた主人公は思索する。
喜嶋先生なりのジョークかもしれないから、僕は先生に微笑んで返したけれど、じっくりとその言葉を考えてみると、こんなに凄い言葉、こんなに怖い言葉はない。
良い経験になった、という言葉で、人はなんでも肯定してしまうけれど、人間って経験するために生きているのだろうか。今、僕がやっていることは、ただ経験すれば良いだけのものなんだろうか。
経験を積み重ねることによって、人間はだんだん立派になっていく。でも、死んでしまったら、それで終わり。フリダシにさえ戻れない。
なにかしら経験するために生きていたいと願うが、そんな経験も死んだら雨の中の涙のように消えてしまう、、、だとしたら研究であれなんであれやってることの意味は、、、となってしまう。
小説とはこうした感情を扱うものだ。だからフィクションにすぎないものでもリアリティを持ちうる。俗に言う刺さるってやつだ。
そうだ。リアリティなんて読んだ人間が決めればいい。
私にとって『喜嶋先生の静かな世界』は極めてリアルな世界だった。
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