磯野真穂『コロナ禍と出会い直す』読んだ
韓国におけるクーデター未遂(まがい?)のせいで、コロナ騒動における公権力が間接直接に国民の権利を制限したことが蒸し返されている。
コロナ騒動はなんとなく収束してしまい、公権力や多数派が、法的根拠も不明確なまま国民の自由を制限したことが忘れられつつある。
だから何度でも蒸し返すべきである。
あのときはしかたなかったで済ませてはならない。
古市憲寿氏はただの上野千鶴子の子飼いだと思っていたが、それは大変な勘違いだった。
ほとんどの人文系はふだん国民の権利だの自由だの宣いながら、雑魚ウイルスの前であっさりそれらを放棄した。
古市氏は貴重な例外だった。古市氏の基本的な主義主張に賛同することは今後もないだろうが、ちゃんと筋を通した人としてリスペクトし続けよう。
主義主張は違えど、あそこでちゃんと踏み止まれる人間とは合い通じる何かがあると思えるし、彼らとそうでない生き物とでは、超えがたい壁があるように思われる。
磯野真穂氏もそのような貴重な例外の一人である。
氏のコロナ騒動下での言論活動をまとめ、振り返ったのが本書である。
「出会い直す」なんてきれいな言葉を使っているが、何度でも蒸し返してやるという激烈な執念に貫かれている。
感染症の専門家する存在意義が不明なアクリル板、そしてほぼ同時期に外科医が学会で大はしゃぎ、、、
「気のゆるみ」という言葉が連呼されたが、それがいったいなんなのかは明言されないし、気が緩んだから感染が増えるという根拠も明らかではなかった。こんな非科学的なことを医師も医師でない者も連呼していたのだ。
非科学の典型が「県外」である。県境をまたぐ移動が異常に敵視されていた。別に線が引かれているわけでもない、いや、線が引かれていたとしても、そのことが感染拡大と関連しているとは思われないのにね。
「県外」については医学に不案内な行政関係者が唱えていたわけではない。私の母校の大学病院では、県外での外勤は、日付が変わってはいけないという謎ルールがあったらしい。いっつも偉そうにエビデンスだなんだとはしゃいでいる大学病院がこんなアホなルールを決めていたのである。
もっとも大病院には感染対策チームとかいう特高紛いが跋扈していることを知っている人間にとっては不思議なことでもないけどね。
本書ではアホなことの事例がいくつか挙げられ、そして私はそれに関連するアホなことを思い出さされ、あの愚かな経験を絶対に風化させないという著者の強い意志が感じられるのであった。
定期的にこういう蒸し返しをしないといけないなと思った(KONAMI)