大林啓吾編著『感染症と憲法』読んだ

今年3月に出版されたこれ、出てすぐ買ったんだけどやっと読み終わった。

公衆衛生の歴史や、現実の法制度を概観するのに非常に有用であった。

購入のきっかけは、西迫大祐氏の論考を読みたかったからである。

しかし、西迫氏はもちろんのこと他の方の論考も興味深いものであった。

まず第1章は感染症にまつわる憲法の総論。公衆衛生、特に感染症は個人の自由と鋭く対立する問題というのは古今常識なのだが、いきなり「憲法学はこの種の問題を十分検討してこなかった」と始まり、ずっこける。しかしずっこけるほうが間違いである。憲法学者は北朝鮮のミサイルが頭上を飛んでいても、9条に異様にこだわる人達なのだから。

しかし新型コロナウイルスでようやく今そこにある問題と認識するほかなくなったわけである。「今までは安全地帯からものを言ってただけなんですね」と嫌味の一つも言いたくなるのであるが、9章では感染症対策のために改憲すべきかという問題について、非常にフェアな議論が展開されていることを慌てて付け加えておこう。そして、今までリベラルと見られていた人々が、国家の強制力を要求していることに対して、きちんと違和感を表明しているのは筋が通っていると思う。

この自由はどこまで制限されるべきかという問題意識は、隔離(4章)、流言飛語(5章)、選挙(6章)、マスク(7章)においても貫かれている。

また日本は同調圧力が強く、自粛の要請というソフトなお願いでも実質的に強制力として機能することもたびたび強調される。そして自粛だから補償がされないかもしれないという懸念も表明されている。もちろん癩病の歴史に触れるのも忘れていない。

西迫氏は、第3章「感染症予防の何が問題となるか」を担当し、アメリカやフランスの感染症予防の歴史を総覧されている。ここで引用されているヤコブソン対マサチューセッツ州判決(予防接種を拒否した者に罰金を科すことは正当かという訴訟)からもわかるとおり、防疫と自由の対立は古くからある問題である。「十分検討してこなかった」としたらそれは怠慢である。

私見であるが、国家に強制を求めるにせよ、同調圧力による自粛にせよ、本邦はそれほど自由を欲していなかったのだなあと思わされる。少なくとも、アメリカのように大量の感染者や死者を出してまで守るべきものではなかったのだ。そしてそのようにして守られた自由は、様々な効用をアメリカにもたらしてきたが、それが本書の守備範囲外である。

国民はそこまで自由を欲していないのに、先の大戦の経緯もあり憲法は政府の腕を縛ることに力点が置かれており、憲法学者は日本国憲法の方向性に沿って議論を重ねてきた。ここのねじれは誰かが言っていたように戦後民主主義のバグといえようし、新型コロナウイルスはこのバグを巧妙についてくる極めて嫌がらせ性能の高いウイルスなのである。


他にも検疫や隔離の根拠となる条文など、実務的なこともわかりやすく書いてある。緊急事態宣言などなくても特措法だけでかなりのことを政府はできることも書いてある。そして特措法はもちろん個人の権利の侵害が行き過ぎないよう十分な配慮もされている、わりと優秀な法律だ。

以上のようなことから、わりとおすすめな一冊なのであった。

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