田川建三『キリスト教思想への招待』読んだ
この本で紹介されていた田川建三氏の著作を読んでみる。ほかに読んでみようと準備しているものもあるが軽めのものから。
著者自身はクリスチャンではないのだが、キリスト教2000年の歴史にはいいこともいっぱいあって、それは知らないのは損であるというスタンスだ。
そういう立場から平易にいろいろ紹介するという筋書きであり、非常に読みやすい。。。読みやすいのだが、米帝批判、環境問題、Gender gapなど、左派知識人の紋切り型が連発されておりややげんなりする。
というか、そういう与太話の合間に大事なことが書いてあるのでけっこうめんどくさい読み物である。
まあ20年前の本なのであって、そのときに読んでいればまた違う感想になったかもしれないが、なんせこの20年で私達の解像度が上がりまくってしまったのでしょうがないのである。
とはいえ面白いところもたくさんあった。
最初に創造信仰について。天地創造に類する話は別にキリスト教の専売特許ではないのだが、そういうことを指摘すると聖書を聖典にしたい人にとっては都合が悪かろうという。ここから近代最大の神学者カール・バルト批判へとつながっていく。バルトをそういうふうに捉えることもできるのかと勉強になった。
そもそも聖書では、人間その他の生き物はことごとく神様につくられた物として描かれる。古代の人びとにとってはたしかにそういう実感があっただろう。大地に種をまいたら勝手に食物ができるのはさぞかし神秘的であったろう。
現代の医師たる私にとっても、セックスしたら人間が湧いて出てくるのはとても不可思議に思えるのだから、昔の人にとってはさぞ(以下略
ここから、自然を征服しようとする近現代批判につながっていくのが本書のやや残念なところではあるが。
次に隣人愛について。
背教者とも呼ばれたユリアヌス帝であっても、よそ者に宿や看護を提供する救護所は維持するよう命じたという。このての救護所はまさにキリスト教的なものであって、ユダヤ教とちがって世界宗教になりえたゆえんである。つまりその基底に隣人愛があったのだ。
(欧州の福祉制度はここに起源があり、これを借りてきただけの日本の福祉はどうのこうのと陳腐な批判が始まるのはご愛嬌)
ユリアヌスの叔父コンスタンティヌス大帝のころには、ローマ帝国ですでにキリスト教はマジョリティとなっており、国教になったわけである。
古典ギリシャの世界を愛したユリアノスはこれを斥けようとしたのだが、支配階級ですらキリスト教という「現実」を受け入れており、ユリアヌスの「改革」がうまくいくはずはなかったのである。
ユリアヌスを応援してくれるはずだったギリシャ的教養をもつ人びとが「現実」に埋没していくことに絶望し、自暴自棄となって戦死したというのが著者の見立てである。
私としてはこうした類の妄想には好感をもつほかないのであった。
そしてそもそもキリスト教はなぜメジャーになったのか。キリスト教はなにから人びとを救済したのか?
著者によれば、それは宗教からの救済であった。面倒な儀式やお布施の類はもういらないのだと、イエスが天に召されたことで永久に贖われたのだと、そういう簡明さが受けたのである。
とはいえ既存秩序への反抗も、秩序の側になるや同じことをやりだすのである。つまり、ルターらの宗教改革は原始キリスト教のリバイバルであったし、フランス大革命やソ連のプロレタリア革命における、厳格な政教分離あるいは宗教排斥もそういう側面があったろう。鎌倉仏教だってきっとそうだろう。
もちろん宗教を排したところで別の秩序に抑圧されるだけなのは歴史の教える通りなのであった。