仏教モダニズム、対話、原理主義
この週末はプロ野球観たりとかで忙しかったのだが、週末恒例の仏教のアレさんの読書会はちゃんと視聴していたのだ。
いつものことながらお二人の語り口が心地よい。仏教の実践が身近なものに感じられる(実践できるとはいってない)。
『Why I Am Not a Buddhist』の読書会も9回目、今回でいちおう最後まで読んだことになる。私はまだ最後まで読めてないのだがまあいいだろう。
前回は多くのことは概念依存的であり、悟りもまたそこから逃れるのは難しい。概念化するからこそ他者に伝達可能だからだ。
そして今日はコスモポリタニズムについて。
ここでいうコスモポリタニズムとはサンスクリット語文化圏にあったコスモポリタニズムのことで、ローマ帝国の軍事力のもとに栄えたラテン語文化圏とは異なり、自生的なものであったという。インドではイスラム教以前はそうだったかもしれない。しかし漢字文化圏は、、、
仏教モダニズム批判の文脈では、普遍主義やグローバリズムが批判の対象となる。これと二項対立になるのはローカル、反科学的態度、仏教原理主義であろうか。
コスモポリタニズムはこれらとは違って、この両極端に中間にあるというか、対話を可能にするものであろうか。普遍主義でもなく反普遍主義でもなく、”お互いが異なる伝統や共同体に結びついた個人として認め合うこと。社会が単一の生活様式に収束することを期待しない”という態度が大事らしい。そこにこそ真のモダンがあるのだろう。
人類みな兄弟的な暑苦しくて極端で息苦しいものではなく、対話の前提が少なくとも一部は共有されているといった感じ。リベラリズムとかグローバリズムとかポリコレとかの、多様性といいながら単一の価値観を押し付けてくるようなものとは違うっぽい。
そのような対話は近代科学と伝統宗教の対話もあるかもしれないな。
その他、ウタカのエピソードについて。ブッダが悟ったあとに布教にでかけて最初に出会ったのがウタカである。ウタカはあなたの師匠はだれかと尋ねるが、ブッダは「俺の師匠は俺だ」などとイキり倒すのだけど、ウタカは折伏されるわけもなく「あなたがそういうならそうなんでしょう」という態度で去っていく。こんな痛いエピソード入れなくてもよかったのではないかと思っていたのだが、やっぱりそう思う人はけっこういるらしいと知って安心した。私が特にひねくれているわけではないらしい。
そして白米になぜ醤油をかけてはいけないのか、卵かけご飯(TKG)なら醤油OKなのはどうしたことか、といったディスカッションが一番頭に残ったのであった。