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西部邁『学者 この喜劇的なるもの』読んだ


西部邁は中沢新一の人事を巡るゴタゴタに嫌気がさして1988年3月に東大教養学部教授を辞任しているのだが、その顛末を記したのが本書である。

西部らは東大教養学部の慣習に従い中沢新一の招聘を決めたのだが、ドタキャンをくらってしまう。

おそらくは当時の中沢の学者にしてはチャラチャラした雰囲気を一部教授たちが嫌がりひっくり返したもので、西部は中沢とその師である山口昌男への義理立てから最後まで奔走するのである。

見田宗介など名前の知られた人たちがたくさん出てくるが、セコい政治を繰り広げる残念な人たちもいれば、村上陽一郎、蓮實重彦のようにまともな人たちもそれなりにいる。

本書はその残念な人々を徹底的に貶め、東大の権威を傷つけることを意図して書かれており、公平性など期待すべくもないのだが、ろくに論文も書かずに社内政治に明け暮れる教授たちも30年以上前の国立大学にはたくさんいたのは想像にかたくない。

たぶん今はそんな人はいないはずである。知らんけど。

それで西部は中沢新一ほかの名誉を傷つけてしまったとして東大を辞すのだが、もちろんそんなことはきっかけにすぎず元から辞めるタイミングを伺っていたのである。辞める人は辞めるきっかけを探しているものである。

東大教授という名誉と安定のある職業をポイッと辞められたのは、それ以外でも食っていけるという算段があったからだろう。交渉したり喧嘩したりするためには選択肢を持っていなくてはならないのだ。

そうでなければ本書に出てくる醜い教員たちのように、義理も人情もかなぐり捨てて、既得権に汲々としがみつくほかないのである。

いうまでもなく、西部が終生持ち続けた選択肢は自裁であった。そしてそれが選択肢たりうるのは精神が明晰な間だけということをよく知っていただろう。そうした筋の通し方の萌芽を本書からも読み取ることができたのであった。



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