『映画を早送りで見る人たち』読んだ
最近よく話題になる映画を早送り視聴問題についての書籍を読んだのだ。
映画というのは等速で観ることを前提に作られているのだから、倍速視聴とか10秒飛ばしはいかがなものかというのが著者のスタンスで、私も同意する。映画は3000本近く観たが、早送りで鑑賞したことなど一度もない。
現代はネトフリのような、定額で実質的に無限にコンテンツを提供するサービスがあふれている。だから鑑賞というよりも、コンテンツを消費するという感覚になっているようだ。
時間を無駄にすることなく摂取して、友人との話題についていくのが大事なのだろう。わからんではない。
セリフのないところはストーリー展開と関係ないとみなされるから、セリフが多めになるのが最近の映像作品のようだ。地上波のテレビもいつの間にかテロップだらけになってしまった。
説明的すぎるセリフはださいというのがシネフィルの一致した見解である。映像作品なのだから絵に語らせるべきなのだが、どうやらオーディエンスが幼稚化しているらしい。
みんながコンテンツに容易にアクセスできるから、そしてSNSなどで感想がダイレクトに届くから、制作サイドも幼稚なオーディエンスを無視できなくなっている。
作品が幼稚で理解しやすいのは大事なことで、コンテンツを消費することでマジョリティと繋がりやすいという利点がある。個性的すぎると繋がれないのだ。突き詰めたところで、現代はSNSなどで上位互換がすぐに見つかる時代だ。お山の大将ではいられないのである。
だから軽く発信するのがいい。「推し」という言葉はそれを反映している。
ことは映画に限らず、ラノベにもそうした幼稚化、即物化の傾向がある。効率良く快適に楽しみたいという需要が強くなっている。心地よい刺激を脳に素早く与え続けるにはそれがいいのだろう。
Spotifyのせいで音楽も同様の傾向があるらしい。
というのが本書の趣旨である。
まあそんなもんかと思いつつ、疑問もないわけではない。
私はシネフィルであったから、映画を早送りで視聴するような人とは映画の話などしたくないと思っていた。たぶん今もそうだ。
映画はそもそもストーリーを入れる器としては弱い。小説や連続テレビドラマに、尺の関係で負けてしまう。ゲーム・オブ・スローンズのような壮大なドラマは映画では無理だ。
だからストーリーを追うために映画を観るのは非常にバカバカしいことのように思える。それならWikipediaなどであらすじを読めばすむことだ。私は昔はストーリーを追っかけるのが面倒で、事前にあらすじを頭に入れてから鑑賞していたほどだ。ストーリーや人間関係を把握するのに忙しくて映像を楽しめなければ映画を観る意味がないからだ。名作はネタバレに負けない。
しかし、構図とかカット割りとか演技とか作家性を気にして映画を観る人間など昔からたいしていなかったのではないか?今ほどコンテンツが溢れていなかったから倍速視聴などする人がほとんどいなかっただけで。
私だって、Youtubeはしばしば1.75倍くらいで見ているではないか。この本だってものすごい勢いで読んでしまった。自分の手術ビデオは1.5倍で見ている(あまり速くすると上手くなったかのような錯覚に陥るので1.5倍くらいにしとかないといけない)。
本書には、基本的に2倍速で見るが、気に入ったものは等倍で見直すという若者もいた。それでいいと思う。そうやって映画の面白さにはまっていけばいいんじゃないだろうか。
いつの時代も本物は一部の人のためのものだし、また本物でなければアカンわけでもない。どっちにしたって楽しんだもん勝ちだと思うのであった。