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『ホモ・デウス』やっと読み終わったので仏教の本にとりかかる

 

くっそ長いユヴァル・ノア・ハラリ大先生の『ホモデウス』やっと読み終わった。あろうことかと英語版を買ってしまったので不必要に時間がかかった。

そもそもなぜ邦訳の出ている本を英語で読むかというと、英語の勉強というのもあるけど、安いというのが大きい。日本語版は上下巻で4000円前後かかるが、英語の電子書籍だと1000円前後である。私はAmazonのキャンペーンかなにかをやってるときに買ったので800円強で入手した。

しかし日本語で読む場合の1.5ー2倍ほど時間がかかるので、機会損失を考えるとけっして安いとはいえないな。英語を読むのは年々速くなっているけど、日本語を読むのもどんどん速くなるので追いつくことがない。読書のスピードは背景の知識に大きく依存するので、外国語であれ母語であれ、知識が増えると同時に読むのが速くなるのである。

というようなことはさておき、内容はこれまたクソ長い『サピエンス全史』とかぶるところも大きい。人間が他の生き物と違って、大規模にかつ柔軟に共同作業を行えたのは主観と客観の中間であるところの、共同主観(intersubjectivity, 間主観性と訳すのはたしかに変だ)を持ち得たからである。共同主観とは共同幻想とか、大きな物語と言い換えてもいいだろう。要は宗教である。宗教のおかげで、小規模な集団では利己的に振る舞うサピエンスも、大集団では大義に殉じることができるようになるのだ。

しかし19世紀以降、科学の発展により神が表舞台から退いてしまう。宗教に変わって、ヒューマニズムや個人主義や自由主義が主役に躍り出る。価値は人間の内面、感情などにあるのであって、神などの外部にはないというのである。

そして時は流れて21世紀の現在、生物学やデータサイエンスの発達によりそれらの教義もピンチになっている。感情など生化学的な電気信号にすぎないということがわかってきたからである。全てが要素に還元されてしまうなら個人の感情、個人の自由などないのではないか?現在の科学の発展がさらに押し進められたならサピエンスはどうなってしまうのか、、、というサイバーパンク風というか厨二的なお話になっていくのである。

本書が昔に流行ったサイバーパンク的ななにかと異なるのは、現在は進化○○学みたいな知見がかなり蓄積されていることだ。問題含みとはいえ、全ては電気化学的な反応の連なりにすぎないという発想が正当化される情況が整っているのだ。

というような感じで読み進めているうちに私はあることに気がついた。全てを電気生理学的な要素に還元するってきわめて仏教的ではないのか。すでに2500年前にゴータマ・ブッダが如実知見せよとっているのではないか。

そしてどうやらそういう本はすでに出版されていたようだ。不勉強で知らなかった。もともと進化心理学の著述家であったロバート・ライトの『なぜ今、仏教なのか』である。冒頭から仏教を学ぶことは赤い薬を飲むことだという調子である。もちろん赤い薬とは映画『マトリックス』のあれだ。

非常に面白そうなので、英語版も日本語版も買ってしまった。まあ日本語版のほうは魚川祐司氏の珠玉の解説だけ読んで、結局は英語版のほうを読んでいるんだけどね。意外と仏教用語は少なくて読みやすいのだが、知らない英単語をたくさん渉猟しようと思っていたので物足りないでもない。
なお魚川氏の解説はハヤカワのnoteで全文無料公開されているので興味のある向きは一読されたし。

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