井筒俊彦『意識と本質』読んだ
どうにかこうにか2周目終わった。
世界各地の思想を同一視野におさめようとする意欲的な書物で視野が大きく広がった。
とはいえ読むのに大変な苦労をした。しかし親切にも要約を公開してくださっている方々がおられたので、それらを参考にして読み終えることができた。
深く感謝しつつ、私も恥ずかしながら要約を残しておこうと思う。
本質には2種類あって、概念的な本質と、個物に宿る本質である。これらを明確に区別したのがイスラム哲学であり、前者をマヒーヤ、後者をフイーヤと名付けた。
本質だけでは存在しえず、存在するために個体を必要とする、存在するものはすべて個体である、、、というスコラ哲学的な概念に対して、マヒーヤの実在性を信じて疑わぬ人々が東洋にも西洋にもいた。
マヒーヤの肯定論、マヒーヤ実在論には3つの型がある。
第一の型。深層意識を見ることができるようになってはじめて本質が立ち現れるてくるという立場。
例えば、宋儒の格物窮理と静坐。
一つの心の動き(巳発)と次の心の動きの一種の隙間(未発)を捉える。内的訓練によって、この隙間をできるだけ長く把持する。そうすると脱然貫通して、無極にして対極の境地に至るらしい。そうすると窮理において、形而下的で個々バラバラの本質だけでなく、形而上学的な一なる本質が見えるらしい。
静坐と座禅は似ている。だが無心から事物の本質を捉えようとするところが違う。禅には本質という考え方はないが、宋儒では存在界の事物には必ずそれぞれの本質がある。
あるいはマラルメである。ものそのものを捉えようとしたリルケの対極にある。
本質論は一神教にとって非常に危険な考え方であった。アリストテレスのイスラム哲学への流入は、ギリシャ的な本質論とイスラム哲学との相克をもたらした。
因果律が支配する「理」の体系は神の全能性の否定につながりかねない。なぜなら、偶然性が否定された、本質によって金縛りにされた世界では、外から神に働きかけてもらう必要などないからである。
ガザーリーのようなイスラムの思想家は因果律否定、存在者の本質否定に向かうほかなかった(原子論)。これをアヴェロイスは絶対的な不可知論だと批判した。
因果律とは存在者すべてに特有の作用があることに基づく。この作用性こそがマヒーヤであった。
原子論は事物固有の作用を否定し、神が介在する余地をつくる。
アヴェロイスの思想は西洋に逆輸入された。イスラムで問題になったことはカトリックにおいても問題となる。
しかし神をたてない仏教においても同じことが問題にいたる。禅においては事物に本質をみない。この点で宋儒とは決定的に異なる。
だがこのような意識の階層は禅でも宋儒でもインド哲学でも大乗起信論でも想定はされているのだ。
ふつうの人間には「本質」は最初から文化的に与えられている。だから一瞬で事物がなんであるか把握できる。
こうした現実の分節体系は言語に埋め込まれている。これは無意識の領域で現実認識を制約する。著者はこれを言語アラヤ識と呼ぶ。
第一段階は分節と本質の世界。第2段階で本質も分節も失われる。第3段階で分節は戻るが、本質は戻らない。
無「本質」性を大乗仏教では空とよぶだろう。
第二の型。深層的事態と関係するのは同じだが、根源的イマージュの世界の意識領域において、濃厚な象徴性を帯びたarchtypeとして本質は立ち現れる。マンダラとかカバラーとか易とか罫とか、、、正直に言うとこのへんのことは全く頭に入ってこなかった。。。
元型(archtype)はある種の本質であり、人間の経験を前もってさまざまに制約する。元型が、深層意識において形象化したものが「イマージュ」であり、イデア的本質とは本質的に異なっている。この深層意識は、完全なる無意識(ゼロポイント)ではなく、それより一つ上の言語アラヤ識から生じるものであり、文化的に規定されている。マンダラとかカバラーとか易とか罫とかで、現れてくる元型は違うのである。
第三の型。意識の表層で理知的に認識しようとするところに成立する本質。古くはプラトンのイデア論や孔子の正名論など。名と実を一致させようとするので、しばしば政治的要素を帯びる。
この第三の型が一般的な意味での本質論に最も近くて理解しやすかった。
そういうわけで井筒俊彦氏の著作をもっと読んでみたいなあと思ったのであった。
『意識の形而上学』なんてかなり面白そうである。