西部邁『保守の遺言』読んだ
西部邁『死生論』を読んでから、あと何冊か読まないといけないなあと思っていたので、最後の著作であるこれをお買い上げ。
2017年10月22日に西部は自殺するつもりだったらしいが、急遽、衆議院総選挙をやることになったので遠慮したという記述から始まる。
西部が処決したのは2018年1月21日であり、本書はその短い間に書かれて死後に出版された。あとがきは辞世の句といった感じで、人間は最後はひとりで死んでいくということを強く意識させられた。
あとがき以外は、遺書というよりは放言という類のもので、納得できる箇所もあれば、別に読まなくてよかったかなと思うところも多くあった。
ただ、死の直前にこれだけ明晰に書けていたという事実に驚嘆せざるをえないし、また明晰でいられるうちに自裁しなければいけないという想いが彼自身にあったことは想像にかたくない。
いくつかあった考えさせられたことの一つは、グローバリズムと労働分配率の低下についてである。下がり続ける分配率に対して労働者はなぜ団結して行動できないかというと、労働者は自らの有限の人生と、企業というゴーイング・コンサーンを重ねて混同してしまう。ここに混乱の元があり、自分の人生と混同しない(と想定されている)経営者に企業の舵取りは任される。これはまあ理解できる。
そしてこれは国民と国家との関係についても同じことが言えてしまうなあと思ったのである。個々の国民の有限な人生にとっての都合と、ゴーイング・コンサーンたる国家にとって良いこと(つまり国民全体にとって良いこと)はしばしば相反してしまう。西部は日本人は命だけを大事にしすぎと吠えまくっているが、それは様々な次元で利益相反をおこしているのである。みんな誰かに煉獄さんになって欲しいが、自分があんなふうに若くして死ぬのは嫌だからな。
それを可能にするのはなんらかの物語であって、西部は保守派であるから、伝統や文化を縁にしようとする。しかし人口1億を超える本邦では強靭な思想とか物語とかアサビーヤは難しいのではないかとも思う。新反動主義者が都市国家を志向するのがなんとなく理解できる。
もうひとつ感銘を受けた箇所を引用しておこう。
福田恆存は晩年、言論は虚しいと言い募っていたという。同時代に理解されるのは難しいことだとした上で、西部はこう書いている。
歴史を通じて残る言論があるとすれば、正確なロジックと上出来のレトリックをつらぬいた文章に限られるであろうから、言論人は自分がいきているあいだだけの効果の小か大かで言論の虚実を判断してはならないのである。だから自分の生涯についてならば言論は虚しいことを承知の上で、言論に取りかかるのが当然と私は思う。
(太字は引用者)
わかりやすい形の思想や宗教に帰依していなければ、なんらかの洗脳から自由でいられるわけではなく、別の何かをインストールされてしまうだけである。それを西部は「単純模型の大量流行」と称した。そのような世で言葉を紡ぐことの虚しさを知った上で、なにがしか書き続けるというのはしんどいことだったろう。
それでもロジックの一貫性をつらぬくためには、頭脳明晰なうちに自裁する必要があったのだろう。他人をお命至上主義と批判するからには、自分は立派に死んで見せなければならないという心情もあったのかもしれない。
さりとて社会が変われば西部の論理にしたって単なる流行の模型になるかもしれない。昨日も書いたように、我々は模型に順応するのに長けた民族であることだし、そうなる可能性は普通にあると思う。そのようにして、理解なしに受け入れられてしまう虚しさのことを福田恆存は言っていたのだろう。
その虚しさを引き受けた上で思考を続けるしかないのだなあ、というようなことを考えていると、まだまだ死ぬわけにはいかぬという想いにとらわれるのであった。