見出し画像

仏アレさんの'Why I am not a BUddhist'読書会6回目

土曜日なので仏教のアレ編集部さんによるエヴァン・トンプソン著'Why I am not a BUddhist'の読書会であった。今日は夕方からだったのでリアルタイムで視聴できた。

いつもどおり座禅からスタートしたが、私はちょっとだけ座ってあとは英語の発音の練習をしていた。

読書会は'Why I am not a BUddhist'第4章マインドフルネスマニアが本日のお題。

マインドフルネスマニアとはずいぶん挑発的な見出しである。マインドフルネス瞑想というものが商業的に大成功をおさめていることはご案内の通りであって、それを喧伝する人々、加担する人々のことをマインドフルネスマニアと呼んでいるわけである。McMindfullnessなんていうひどいネーミングまである。

そしてマインドフルネスというものが、意識高い人々とか経済的に成功している人々がなんでもマインドフルと結びつけてしまうことで、消費社会にとりこまれることになったわけである。

恋愛で成功するためのマインドフルネスなんてのはしばしば見かけるが、恋愛に成功すだけでなく性交するためのマインドフルネスセックスなんてのもあるというのは驚きだった。

マインドフルネスとセックスについて大真面目に話してるのマジうける。まあsexがmindに影響を受けるのは明白なので、マインドフルネスと関連付けてなにかしら語ることはあるだろう。

しかし仏教の本来的な教えはそうした渇愛から離れることではなかったのか。いやしかしそれでは生殖がなされず社会が保たないし、社会をやるものがいなければ僧団を維持することも困難なだしマインドフルネスセックスもありなのではないか。。。。

とかどうでもいいことを考えてしまったのである。

仏教の本来的な教えといえば、マインドフルネスマニアに対して伝統仏教の側からの批判もあるという。しかし、本物の仏教を教えてやる!という山岡士郎ムーブも極端なのであって有効とはいいがたいというのがこの本の背景にあるのだ。というところが今日の導入部分なのであった。

マインドフルネスマニアの特徴として、瞑想を極度に個人的なものとして考えがちというところがある。瞑想して自分の脳が変われば恋愛もセックスもうまくいくんだという発想になってしまっている。

仏教であれ、瞑想であれ社会的あるいは文化的な影響を排除して成り立っているわけではない。特に日本における仏教は聖徳太子の時代から国家とわかちがたく結びついてきた。

したがって、思考であれ行為であれ、身体や環境をも包摂するものとして捉えるのが私にとっても自然なことと思われる。そういう意味で、著者エヴァン・トンプソンのいう4E認知科学(Embodied, Embedded, Enactive, あと一つは忘れました)というのはすんなり受け入れることができるのであった。

という感じでブリリアントな土曜日の午後をすごした。幸せなことだ。


いいなと思ったら応援しよう!

はむっち@ケンブリッジ英検
サポートは執筆活動に使わせていただきます。