インドにおける西洋医療の浸透『身体の植民地化』
久々の疫病シリーズである。
またしてもみすず書房、高いです。
19世紀は細菌説の登場で西洋医療が大きく進歩した時代であり、臨床医学にとって過渡期であった。大きく進歩したといっても、ジェンナーやハフキンのワクチンを除けば、衛生対策の寄与がほとんどであったと思われる。内科的な医療はおまじないと大差なく、効果のわかりやすい外科的治療のほうが現地人には受け入れられやすかったのは大草原である。
そして、衛生対策とワクチンを主体とする西洋医療が、インド植民地でいかに展開したかが本書の主題である。それは帝国主義の手先以上のものであり、現地の慣習に従属するものでもあった。
帝国主義の手先以上のものであったから受け入れられたし、あるいはマハトマ・ガンディーのように拒絶する人もいたのである。
総論、天然痘、コレラ、ペスト、その他という感じで読書メモを作ってみた。
総論
西洋医療はインドではヨーロッパ人居留置、軍隊、刑務所といった飛び地に限局していた。全体としては、インド在地の医療の方が圧倒的に優勢だった。しかし1830年頃から西洋医療は優位性を獲得していく。
19世紀はまだ西洋医療は占いとたいして変わらず、風土病や特産品に詳しい現地人の方が優れている面も多々あったと思われる。したがって、インドの医薬品などいいところは取り入れるが、基本的には西洋医療のほうが優れているというスタンスになっていく。
西洋医療はインド人にも適用しうる普遍的なものだという考えもあった。その根拠を解剖に求めたが、死体を解剖するという発想が現地人に受け入れられなかった。
インド人には現地の医療も学ばせたが、西洋医療のほうが優れていると現地の医学生も知るであろうという余裕があった。さらには英語主義という傲慢さもあった。しかし重要な解剖は不可触賎民の仕事であり、なかなか浸透しなかった。
現地人になかなか受け入れられないため、西洋医療がなによりも浸透したのは、強制の利く、軍隊と刑務所であった。軍隊ではヨーロッパ人の健康、現地人の規律という観点から西洋医療が浸透し、インド人の兵士にも次第に受け入れられていった。軍隊における死亡率の低下はインド社会への普及に向けて大きな貢献をした。
刑務所は軍隊よりもさらに不衛生で死亡率が高かったが、解剖が容易という利点があった。コレラワクチンで有名なハフキンによるコレラワクチンの実験、食事の実験なども行われた。
細菌説の台頭とそれに対する、かつての環境論パラダイム比較すると、インドではなお後者が優位であった。イギリス人も、インドの風土が良くないのではないかという者もいた。
天然痘
8世紀ころからインドでも天然痘が蔓延した。女神シータラーとの同一化がインドの特徴であった。
19世紀にはインドでも野蛮極まりない人痘接種が普及しており、通過儀礼という意味合いがあった。したがってジェンナーの開発した牛痘接種は受け入れられなかった。牛痘接種はイギリスにとっては慈悲深い施しではあったが。
当時の牛痘ワクチンは輸入またはバグダッドからボンベイへリレー方式で持ち込まれた。1850年以降に、牛でワクチンの苗を育てることが可能になり、供給が安定する。しかし牛から苗をとることをヒンドゥー教徒は嫌がった。
腕から腕へのリレー方式で病苗を確保するのは大変な苦痛で高位カーストの親はたいてい嫌った。腕から膿を搾り取るのが非常に痛々しく、また注射針の回し打ちみたいなものであるから、梅毒など別の病気を感染させるリスクもあった。そうすると供給は不可触賤民に頼ることになる。
イギリス人としても、嫌がる現地人に強制すると大規模な反乱を招くという危惧があった。それでも近代医学の象徴ともいえる牛痘ワクチンはやがて普及していくのだった。
コレラ
コレラは貧困や飢饉と高い相関を見せる感染症である。オーラー・ビービー神信仰と結びついていた
コレラの流行はお祓いなどの宗教的熱狂と結びつくことが多く、感染拡大某氏のためにこれらを止めさせようとすると、反乱を招く危険があった。また隔離を強行すると経済の停滞、財政不安をもたらした。
コレラは、アジアの遊牧民に対する昔ながらのヨーロッパ人の恐怖を引き起こした。巡礼はアジア的無秩序そのもので、コレラ蔓延防止の観点からは最悪だったが止めさせるわけにもいかない。
細菌説は台頭しつつあったが、まだ環境論パラダイムも根強く、さらにインドの風土を結びつけるものもいた。ジョン・スノウやロベルト・コッホの発見にいちゃもんをつける反接触伝染説のイギリス人高官までいる始末であった。
当然、ハフキンのワクチンも限定的範囲でしか受け入れられなかった。
ペスト
ペストは同じ時期のインフルエンザ(スペイン風邪)やマラリアに比べれば死者数そのものはたいしたことはなかった。
しかもコレラや天然痘のように土着信仰と結びつくわけでもなかった。ペストがもたらした疑心暗鬼や対策のほうが現地人にとっては苦痛だった。天然痘やコレラと比べものにならないほど強権的な対策が行われたのである。
西洋にはペストの長い歴史があり、他の西洋諸国からの圧力、圧迫的な対策が押し付けられた。ペスト対策にともなう都市からの大量の人口流出は植民地経営を危うくした。
ペストの診断には剖検が必要であった。ここにおいて身体は聖なる領域ではなく観察の対象となったのである。しかし当然ながら現地人には受け入れがたいことであった。
またイスラムやヒンドゥーの女性の鼠径部を白人男性医師が診察することは大きな抵抗があった。
こうした抵抗を受けて、西洋医療の考え方を押し付けるのではなく、現実的な方向に舵を切っていく。それとともに西洋医療が受容されていくのであった。
その他
西洋医療の植民地ての展開は、現地の歴史・文化をかえりみない、よそ者の医療のおしつけ、ヘゲモニー、というイメージがあるが実際には飛び地的にしか普及しなかった。1億人以上の現地人にわずかな駐在員で押し付けるのはそもそも無理だった。
実際のところヘゲモニーによる押しつけばかりでなく、現地人への配慮もあって徐々に受容された。それも救貧院のような低いカースト向けのものから受容されていったのである。
当時、特に植民地では、女性は医療の中で添え物だった。最初に対象になったのが、軍隊や刑務所のような男性社会だったからというのもある。売春婦についても、彼女らよりも彼女らと接触する兵士の心配がメインだった。性病ももっぱら男性の問題である。
しかし人口の半分を対象外にしていて西洋医療は浸透するわけがなかった。そこで、上述のような現地女性が男性医師に診察を受けることへの抵抗も考慮し、白人女性医師が導入された。イギリス本国において女性医師が増える契機ともなった。