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闘わなければならない世の中

車イスユーザーが公共交通機関で乗車拒否に遭った(最終的には乗れたけど)ことのブログがかなり炎上しています。
http://blog.livedoor.jp/natirou/archives/52316146.html

最初に読んだ時、「あーぁ、こんな風に反感を買うようなやり方、しなければいいのに」って感じてしまった私。
「もっと上手くやればいいのに、」って、、。

でも、その後さらに彼女のブログや彼女が受けた取材記事を読み、そしてそれらに寄せられるコメント、、その多くが「わがままだ」「感謝しろ」っていう声を読んでいるうちに、逆に「なんか、違うんじゃない?」って思えてきたのです。

確かに、取材陣を呼んだり、政党が絡んだりしてる状況を見ると、「炎上目的」だったのかもしれません。
でも、、、
「炎上目的」ってそんなに「悪」なのかしら。
「炎上」させることで、これまでスルーしていた人が目を止めるかもしれない。
というか
「炎上」させなきゃ、気づいてもらえないくらい、スルーされているのが現状であり、「闘わなきゃ」ならないのが現状、、なんですよね、ほんと。

設備の整った駅で降りてタクシーで行きゃーいいだろ。
駅員さんが忙しい中、対応したくれたんだ、感謝しろ。

多くの人がそんな言葉を投げつけています。

でも、、
目的地の最寄りが無人駅だったとしても、
障害がなければ、みんな自由にその駅を使ってますよね?
わざわざ手前の駅で降りて、タクシー代かけて行く、なんてこと、しないですよね?
でも、車イスだとそうすることが当たり前のこととされるの?

じゃあ、もしあなたが、行こうとしている駅には、階段(エレベーターもエスカレーターも)がないから、宙を飛べる人以外はホームにも上がれない、ホームから降りれない、だから飛べないあなたは手前の駅で降りて、タクシーで行けって言われても「飛べない自分が悪いんだから」と文句言わずにタクシーに乗りますか?

「いや、そんな駅、ないでしょ」って思うかもしれません。
でも、そんな駅がないのは、駅を作る時に「人は(宙を飛べないが)自分の足で歩ける」を前提に造っているから。

全てがそうです。
「人は歩ける」
「人は見える」
「人は聞こえる」
そういう前提で作られているから、歩けて、見えて、聞こえる人はなんの不自由もなく、特別に気合を入れることもなく、当たり前にその駅を使えているわけです。
「階段を用意してくれてありがとう」なんて思わないですよね?当たり前すぎて、、。

でも、そういう前提で作られた場所は、障害がある人にとっては、たくさんのバリアーが立ちはだかるわけです。

階段のない駅であなたが移動できないのは、「飛べない」せいですか?
いいえ、「階段がない」せいですよね?

「車イス」の障害者が駅を利用できないのは、「車イス」のせいですか?
いいえ、「エレベーターがない」のせいですよね?

それなのに、
「エレベーターがない」ことを責めるのではなく、「車イスに乗る彼女」を責める。

それっていわゆる、まさに障害の個人モデル。

「障害の個人モデル」とは、障害はその人の心身機能が原因であり、リハビリとか頑張って、少しでも「普通の」人に近づくことで、そのバリアを乗り越える、っていう考え方。

つまり、駅を使えないバリアは、車イスに乗っている彼女のせい、ってこと。だから、自分でなんとかせよ!ってこと。駅員は厚意で手を貸してくれてるんだ、感謝しろってこと。

でも、時代は「社会モデル」の流れ、、のはず。

「障害の社会モデル」とは「障害やバリア、困難、不利益は、個人の心身機能が原因ではなく、社会や組織の仕組み、文化や慣習などの「社会的障壁」が、障害をつくりだしている。それを解消することは社会の責務」という捉え方。

「障害の社会モデル」が示された「障害者の権利に関する条約(障害者権利条約)」が国連総会で採択されたのが2006年。
それに日本がやっと批准したのは8年も経ってからの2014年。
そして2016年に障害者差別解消法が施行。
ブログの彼女もこの法律のことを持ち出している。

彼女は自分が車いすだからという理由で、他の利用客ならやらない「他の駅で降りてタクシーで行け」「事前に連絡しろ」ということを当たり前のように言われたことに対して、反論したのだと思う。

障害のない利用客ならやらなくていいことをやらされたり、障害のない利用客ならできることをやれなかったり、、、それらを「(体に)障害があるんだからしかたないじゃん。諦めろよ、妥協しろよ、黙って感謝しろよ」って、片付けてしまっていいのでしょうか?

そもそも駅にエレベーターがあれば彼女は誰の手も借りずに駅を使えたのだから、そのエレベーターの代わりに人の手を要求しただけのこと。

なのに、彼女へのコメントには「障害者だからってなに様?どんだけ偉いの?」っていうものがありました。

いやぁ、別に「なに様」でもないんですよ。ただ、皆さんと同じように暮らしたい(駅を使いたい)だけなんですよ。でも、社会の仕組み(駅の造り)がそれを許してくれない状態だから、せめて皆さんと同じスタートラインに立つために、必要な物(駅員さんの手助け)を求めてるだけなんですよ、ってこと。

社会的障壁を、障害者が黙ったまま受け入れて、それに合わせて、我慢して、おとなしくしていたら、社会の側は自分たちが「障害」を作り出していることにも気づかず、なにも変わらない。
エレベーターがなくても困らない人だけが駅を使い、エレベーターがないと困る人が声も上げずに我慢していたら、誰も「エレベーターが必要」ってことに気づかないまま。「無人駅だと困る人がいる」ってことにも気づかないまま。
そして、障害者が必要な支援やサポートを求めても、それは「権利」とは考えてもらえず、その場の「施し」「厚意」「思いやり」みたい捉えられ、「感謝すべき」って言われる。

それではダメだと思うから、彼女はあえて闘ったのかもしれない。

でも、彼女のこの「戦い」に対して、あるアンケートでは97%の人が「支持しない」と答えている、とか。

「支持しない」人たちは、自分がもし体が不自由になって、こんなことを言われたら、、って想像出来るのかしら?
「ここはエレベーターないから来ないで」
「この店は狭いから入らないで」
「この電車は混んでるから、空いた電車が来るまで待って」
「車イスの人はいざという時に危ないからこのマンションに住まないで」
「車イスは邪魔だから歩道を通らないで」
と。
言われても仕方ないこと、でしょうか?

また、「事前に連絡していれば済んだことだ」という声も多いようです。確かに連絡しておけば、スムーズに行ったのかもしれません。
でもそれって根本的な解決じゃないですよね?
例えば家族が事故にあった。すぐに駆けつけなきゃゃってことだって起こるかも知れない。
そんな時に「事前に連絡なかったから、あなたは駅を使えません」
「事前に申し込みがなかったから、車いす対応のタクシーは使えません」
それでも、「車イスだからしかたない」と諦めるしかないのでしょうか?

事前連絡は「必須」ではなく、「事前連絡することで、待たせることもなく、スムーズに行うため」であり、でも事前連絡がない場合でも、「公共」交通機関としてできる限りの対応をする」べきなのでは?私はそう思います。
だからその点では、結果的に駅員さんが車イスを運んで電車に乗れた、という「合理的配慮」に対しての「感謝」がブログの文面から伝わればよかったのにな、と残念には思います。

ともあれ、彼女の闘い方は、かなりリスキーで、その一言一句を論破して、「だから彼女は間違ってる!」という記事もあったりします。
確かにあの日あの場でのやりとり、それを書いた彼女のブログだけを見るならば、「無理難題を押し付ける当たり屋」みたいに言われてしまうやり方だったかもしれません。
でも、そういう「闘い」の先に、「闘い」や「対立」ではなく「お互いに歩み寄る」ことで全ての人が自分らしく暮らせる社会が創られる、そう信じて、たとえ、たった3%だとしても、「支持する」に手は挙げたいな、と思うのです。

まだ書きたいことがありますが、今回はここまで。

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ぶーみおちゃんぷ
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