フラニーは私
私と『フラニーとズーイ』との出会い
今回がnoteに初投稿なので、軽い自己紹介と一緒に大好きなフラニーとの出会いを綴っていきたいと思う。まだ書きなれていなくて拙いとは思うが、言葉にして、自分の中で残したいという気持ちで書いていく。
私がフラニーと出会ったのは、高3のとき、現代文の先生に教えてもらったときである。当時の私は(今もそうかも)生きるのが苦しくて、受験勉強という檻の中に閉じ込められている感覚で、「知りたい」という感情は自分の中から捨てなければならないのか、テストには出ないこと、共通テストには出ないことはないものとして扱わなければならないのか。
知識というのは、点数に還元できるほど低俗なものであるのか。
そういう疑問がいつも自分の中にあって、もやもやしていた。
受験が終わり、第一志望の大学には行けなかったが、今はだいぶ自由に生きている。好きな本を読んで(専ら哲学とそれに関する小説と文学だが)好きなように息をしているから、息苦しさは減っている。
そんな私を現代文のT先生は見抜いていたのか、見透かしていたのか。「なんだったかな、ああ、フラニーとズーイ。多分あなたにはいいですよ」と薦めた。サリンジャーすら知らなくて、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」も読んだことがない自分は、読むべき順なんて関係なしに、純粋に救われたくて学校帰り本屋で購入した。
当時読んで思ったこと
これは、記憶であって当時の記録はないけれど、覚えている限りその時の感情を書き記す。
ああ、これだ。わたしが思っていたことはこれだと、前章「フラニー」を読んで思った。
毎日毎日塾の帰りに新幹線ホームを眺めながら、なんでこんな世の中エゴばかりなのか、エゴばかりな自分に辟易して憎悪して、溜息ばかりしていた自分と同じことを考えている人がいる、それだけで救われた。
でも、ズーイの言っていることがよくわからない。フラニーはズーイ(もしくはシーモア)に救われた、という構図は理解できる。でもズーイの言うことは難しすぎる。
そこから何度も何度も、電車で読み直した。
ズーイを理解したくて。救われたくて。本の背表紙は色が剥けて白が目立つようになって、表紙は黒ずんだ。それでも、まだ足りなかった。
そして、なんとなくわかる、ようになった。でもうまく言葉にできなかった。とりあえずT先生に報告をした。人に話せば少しは言葉にできるかもしれないと思ったからだ。
「先生、フラニーとズーイ読みました。」
「そうですか、どうでしたか。」
「フラニーは私です。私が言いたいことを全部言っていました。」
「フラニーはあなたですか。そうですか。救われましたか。」
救われた。
そう言いたかったのか、実際そう言ったのかは全く記憶がない。
でもこのときわかったのだ。私を救ったのは、ズーイであると同時に、このT先生であることを。
そして、今思うこと
「正しいものの考えができなくなったときの僕は、テレビジョンに関する、あるいはそういったもの全般に関する感情を個人的な次元に落としてしまう。」
これはズーイがフラニーに向けていった言葉である。個人的な感情を物事に向けるだけで、私たちは嫉妬や憎悪や、そういう類の感情を抱いてしまう。しかし、ズーイが言うような「太っちょなおばさん=キリスト」を持ってさえいれば、その存在を大事にしなければならないから、前述する感情を抱くことは少なくなる。
訳者の村上春樹さんが指摘する通り、サリンジャーはこの本に関して、やや宗教的に書きすぎていて、一定数読みにくさを感じる人もいること否定できない。だが、宗教というより、もっと現実や日常において考えれば読みやすさを感じるのではないだろうか。
現実や日常において、とはどういうことか。
私たちは「今回の推し、神すぎる」「先輩、まじで神」というように「神」という言葉を多用しすぎている。そういうレベルまでに押し込むということだ。
フラニーにとって、救ったのは神ではない。シーモアを演じるズーイ、そしてズーイ本人である。フラニーはズーイの近くにいて、何かしらお互い影響を受け合っている。そして、フラニーはその重要性に意識的に気がついていない。つまりは、私たちには必ずキリストに近い誰かは近くにいるはずですで、でも私たちはその存在には気がついていないのだ。
そこに大きな問題があると、今の私は思っている。
私にとって、「太っちょなおばさん(キリスト)」は、T先生である。
夏休みには時に3時間も話をして、毎日のように質問をして、時に相談をして。そして私に「フラニーとズーイ」を薦めた。
先生の考えは私の価値判断の一つになっている。先生だったらどうするか、先生はどうやって考えるか。割とそんなことを考えるまでになってしまった。先生のためなら、きっとほとんどのことはできるはずである。
エゴについては、まだ切り離せていない。が、これでいいんだ。エゴは人間の本質だから。私は今日もエゴで生きていく。救われたくて、今日もまた自分のために、本を読む。
#フラニーとズーイ
#村上春樹
#サリンジャー