国境の南、太陽の西
はじめに
注意:本記事はネタバレを含みます。
僕はこの5,6年、村上春樹の作品とかなり距離を取ってきた。
正確に言うならば、僕個人の環境の変化などから、短編を除き、春樹作品に相容れないもの(これについてはnoteにて騎士団長殺しの感想で書いている)をどうしても感じるようになった、とも言える。昨年、騎士団長殺しをようやく重い腰を上げて読み終え、更にその感覚は深まったが、それと同時に、何かしら懐かしいものを感じたりもした。それは春樹作品に対しての懐かしさだけでなく、僕自身が春樹にハマっていた10代の頃の僕に対する懐かしさでもある。
夏目漱石が「文芸の哲学的基礎」の中で言っている言葉、「還元的感化」というのがある。英訳担当を長年しているハーバード大名誉教授ルービン氏が2015年に東洋経済にて、漱石と春樹の共通点として、還元的感化について触れている。還元的感化とは、小説家と読み手の間に「純粋かつ個人的な関係」が構築されることを言っているのだが、村上春樹作品の多くがこの還元的感化を読み手にもたらすことに疑う余地はないだろう。
テーマ 自己回帰と感情の喪失
今回の再読は『国境の南、太陽の西』で、前回再読した『海辺のカフカ』よりも前の作品であり、『ねじまき鳥クロニクル』が刊行されるの2年前、1992年の作品だ。今からちょうど30年前に刊行された作品である。2022年の現在読んでも全く古臭くないのは、作品の根底に何かしらの普遍性があるのと、前述した還元的感化によるものが大きく起因する。この作品のどういったテーマに普遍的な還元的感化があるのか?一つには、この作品のメインテーマとなっている
「自己回帰」と「感情の喪失」
にあるかもしれない。
無論この彼の中期中編作品は、彼のデタッチメント期らしい「喪失」が大きな特徴として現れている。
自己回帰
物語は主人公ハジメの回想から始まる。
終戦から5年以上が経ち、日本全体が敗戦から復興を目指していた最中で、もう戦争の余韻がほとんどないような時代に生まれたハジメは、当時としては珍しく、一人っ子であった。一人っ子というレッテルのような固有イメージに対してハジメはどことなくコンプレックスのようなものを抱きながらも、それを当たり前のこととして受け入れている。
似たような境遇の足の悪い同級生の女の子島本さんのことを回想しながら、島本さんを通して、ハジメは少年だった頃の自分に想いを馳せている。
「存在した」誰かを通して、自分自身を見つめ直す、自己回帰を試みるハジメはやがて、自分自身に少年の頃には持ち得ていた感情が失われていることにフォーカスしていく。
僕が村上春樹の『国境の南、太陽の西』を昔も今も何かしら共鳴するものがあるとするならば、タブッキの『遠い水平線』と似通ったテーマが流れていることが挙げられる。
他者や『存在した』他者を通して、自分自身が『存在した』ことを見る。
ハジメにとってのヘカベが幼馴染の島本さんや、高校時代の彼女であったイズミであるかのように。ヘカベのように復讐を企てることはなくとも。
※『ハムレット』シェークスピアでハムレットが「ヘカベとは何なのか」というシーンがある。
タブッキは、『遠い水平線』の中で主人公にこのセリフを言わせている。
感情の喪失と剥き出しの虚構の存在との邂逅
ハジメの経営するバーに『偶然』やってきた高校の同級生によって、ハジメは現在のイズミの様子を知らされる。
現在のイズミは過去とは異なり、子どもたちが怯えるほどに変貌してしまったことが伺える。
こうして、それぞれの環境や状況が大人になった現在、ハジメは徐々に自分自身から失われていったものが二人の女の子だけではなく、彼女たちの喪失を通して、自身の感情も喪失していっていることに深いやるせなさを感じ始めた。
物語が進み、ハジメは失われた何かを必死につかむかのように、島本さんの幻影を追う。そして、島本さんと関係を持ちはじめ、妻にそのことを打ち明ける。
島本さんの中に自分の求めるものがあるかのように思えたのかもしれない。
ハジメの喪失感にさらに拍車をかけるかのごとく、島本さんと寝た後、彼女が完全にハジメの前から消えてしまったことを知る。
そして、イズミとも奇妙な邂逅を果たすことにより、イズミの語りかけていた虚無にハジメ自身がすっぽりと入り込んでしまったことを感じ取る。
このハジメとイズミの奇妙な邂逅のシーンで、『嘔吐』サルトル著で主人公ロカンタンがマロニエの木に吐き気を感じるシーンを僕は彷彿する。
ハジメが表情を失ったイズミを見たときにドロドロとしたものを感じたのはむき出しの虚構の存在を見出したのかもしれない。
ハジメはロカンタンとは違う方向で在り方を作りに行く。
僕には、ハジメが新たな虚構を作ることによって虚無を記憶の彼方に追いやろうとしただけのように見えた。感情の喪失からそれによって一時的にかもしれないが、回復するときもあるのかもしれない。
おわりに 虚構と現実の境界線の狭間で
ハジメの対他存在としての自己認識は「存在した」他者あるいは幻影を通してであることに変化はないのかもしれないし、その後、変化し、現実の妻や娘たち、関わる人々のまなざしを通しての認識に変化するかもしれない。
後者は、僕の想像の余白に残された楽観的希望でもある。
存在論的な話から冒頭の漱石の還元的感化に話を戻すと、こうした誰しもが経験しうる日常の中で、二項対立的なものというのは非常に曖昧な境界をもって、僕たちは日々を過ごしている。
生と死、昼と夜、過去と未来、喪失と再生。
春樹の本書はとりわけ、彼のさまざまな著書で出てくるテーマ、愛、生と死や邂逅、喪失と再生といったものを端的に抽出されたもののようにも思える。まるで昔の僕の話をしているようだ、と思わせてくれるところに彼の魅力があることを僕は改めて感じた。
僕は本書を再読し終え、早朝の稲村ケ崎海岸をひとりで散歩した。水平線の南を見ると穏やかな波が見えるだけだ。その水平線と空の境界はとても曖昧だった。
昇る太陽を背に西へ歩くと影が僕より先に西へ到達する。
幻影が先に到達した西側の地点と僕が重なると、「幻影と現実の境界は曖昧なものである」とぼんやり水平線の向こう側で誰かが僕に言っているようだった。「曖昧ではあるけれど、幻影は幻影ではなく、僕自身なのだ」と僕は呟いた。
僕の目の前に広がるものは、僕の世界には、すべて現在でないものは存在していなかった。
僕に村上春樹を教えてくれた女の子をモデルにした話