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地図と領土

著者 ミシェル・ウェルベック
訳 野崎 歓
出版 筑摩書房 2013/11/25 第一刷

ウェルベックは、風刺の効いたシュールな作品が読みたいならオススメしたい作家のひとりだ。
選挙があったあと、昔読んだウェルベックを思い出した。

注意

この投稿は若干ネタバレを含みます。

作品概要

作中人物ジェド・マルタンと作中に自ら登場するミシェル・ウェルベック。
2人の芸術家の交流を通して描かれるジェドの伝記。
2010年ゴンクール賞受賞作品。

共産主義には生産を保証することができずもっとも基本的な財産を配分することさえ決してできなかった。
資本主義が登場するはるか以前に、科学的探究や技術的進歩ははじまっており、人々は懸命にときには身を削って労働に励んでいた。
利益への欲望に駆り立てられてではなく、現代人が見ればそれよりもはるかに漠然とした何かのために。聖職者たちなら神への愛、職務に対する誇り。
『地図と領土』ミシェル・ウェルベック 筑摩書房 p202

あらすじ

売れないポストモダン画家があることをきっかけに売れ始め、有名作家ウェルベック(自画自賛しているが、彼なら許されるであろう)に50ページにも及ぶ作品解説を書いてもらった個展を契機に売れっ子画家へと変貌してゆく。しかし、そのことが後にある凄惨な殺人事件へと繋がってゆく。

以下ネタバレを含みます

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テーマと感想

消費社会
心なき資本主義
現代の超個人主義からくる孤立感
無機質な物質主義的な文明

これらへの風刺と批判をテーマに感じた。

消費的資本主義の中での現代人の能動的な孤立、つまり、ネガティブな意味での孤独と、そこから引き起こされる人間らしさとの矛盾が近未来のヨーロッパの崩壊への警鈴のようにウェルベックらしく描かれている。

また、そうした中で芸術を飾るための壁を心の中に持ち続ける彼のスタンスと、芸術とは純粋に楽しいという動機や鳥が歌うように描く無邪気さといった漠然としたものの中にこそ芸術の真の姿があるのではないか?
と問う作者から、昨日のトレンドは既に輝きを失ってしまうという猛烈なスピードで移り変わりゆくトレンド社会への批判も感じた。

作中に実在する有名人が何人も登場するのはローラン・ビネの『言語の七番目の機能』を彷彿させる。
作中人物ジェドの作品、ビル・ゲイツとジョブスの絵に対し、「資本主義の簡潔な歴史」と、非常に的確でわかりやすい比喩的副題をつけるべきと風刺していたり、かと思えば、ジェドの祖父母の理想的な愛情の不滅さを描いていたり、自虐的にウェルベック自身を登場させ、作中終始酷い扱いをしていたりと、本作品はシュールなウェルベック節が楽しい。

本書のタイトル『地図と領土』は、ジェドの初の展覧会のタイトル、「地図は領土よりも興味深い」からきているのであろう。
初の展覧会は画家としてではなく、写真家としての「県別ミシュラン」を撮ったものだ。

子ども時代、絵を描くことが好きだったジェドのアーティストとしてのデビューは写真展であった。けれどもやがて、彼は絵画へと回帰する。

そして画家に転向したジェドは写真をこっぴどく非難するわけだが、結末にはやはり、写真を撮る。彼の残した写真を淡々と語る2046年を生きる語り手。
そこには文明に打ち勝つ植物の生命力が切り取られている。

まるで遠い未来の視点から近い将来に起こるディストピアな世界を描いたようなラストは、モノクローム写真のようなイメージだ。

ウェルベックは重いテーマをサラサラと書くのだが、サラサラとした中にザラつきがある。こう言うのを上手くカッコよく表現したら何と言うのでしょうね…。

本書とは書かれた時代背景は異なるが、どことなく、クンデラの言っていたことを思い起こす。

(歴史)がまだゆっくりと歩んでいた頃は、数少ない歴史の出来事はたやすく記憶に刻みこまれ、みんなが知っている背景を織りなしていた。その背景の前で、私生活のさまざまな冒険の、感動的な光景が繰り広げられていたものだった。ところが今日では、時間は大股にすすむ。
歴史的な出来事は一夜のうちに忘れ去られ、翌日からはもう、新しい出来事の露となってきらめく。だからそれはもはや、話者の物語のなかでは背景とはならず、あまりにも見慣れた私生活を遺景として演じられる、驚くべき「冒険」になってしまうのである。
みんなが知っていると仮定できる歴史的な出来事はひとつとして存在しない。そこで私も、数年前に起こった出来事を、まるで千年も昔のことのように語らねばならないのである。
「笑いと忘却の書」ミラン・クンデラ集英社文庫 p14

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