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逗子マリーナの女

愛に区別はなく、また、愛は無限であるが人間の奢りによって有限と錯覚されている、そのようにふと思う。

有限と錯覚された愛は愛なのか?

ある日、ぼくは春が来てることを感じながら、逗子のマンションの一室でぼんやりとそのようなことを考えていた。完全なる春が来たら、ぼくは獅子座に帰らなきゃいけない気がしてる。ベランダの向こうにはヨットがいくつか並んでいて、海鳴りが聞こえてくる。「この棟のとなりのある一室で50年くらい前に作家が死んだらしい」、と友人に言うと、興味なさそうに「ふうん」と海を見ながら答えた。

SNSを開くと大胆なニュースが毎秒流れてくる時代だ。気球のことや老人たちへの敬意のない発言問題や軍事費のこと、米国大統領がヨーロッパ周辺を訪れていることや大地震のこと。戦争のこと。また別のSNSを開くと溢れるくらいのいろんな本の表紙───ぼくの今の世界と繋がった先のこともあればないものもある。おおむね繋がってないものばかりだ。

北斗七星からなる大熊座の少し下、南西に僕のレグルスは見える。南の少し暗い星デネボラと南東の明るいスピカ、東のアークトゥルスの三つの星が春の大三角形と呼ばれている。レグルスはそれらよりも明るい。だのに三角から外されてしまった。
なぜなのかわからない。デネボラよりは明るいのに遠いからなんだろう。

いずれにせよ、すべてにおいて、星々は規則正しく輝き続ける。少なくともあと数億年くらいは。
ぼくの生死、ぼくがどこで息をしていようと、誰かの何か大切なものが粉々になろうと、SNSで毎秒違うニュースが流れようと、違う本の表紙が溢れかえるくらいに撮り続けられようと、あらゆることに無関係に、あるいは関係を忘れられたかのように、頭上には、春の大三角形が輝き、その少し南西で一段とぼくの故郷は明るく輝いている。

「奥さんは連れてこなかったの?」
「彼女は今日ぼくが仕事だと思ってる」
「嘘ついたの?」
「いや、休日だと言わなかっただけだから、セーフじゃないかな」
「あなたって、いつもズルいのね。向き合うことから逃げてるだけじゃない」
「そんなことない」

レグルスに帰ることも妻にはまだ言ってない。
たぶん、ぼくが「レグルスに帰るんだ」なんて言ったところで本気になんてしないだろう。

「あなたが読んでるのはここで死んだひとの?」
「うん」

ぼくは『雪国』と『山の音』を読み返していた。
友人はぼくの邪魔をするわけでもなく、何をするわけでもなく、ときどき、文字を追うことに飽きると、こうしてやってくる。

やっぱり、舞台が由比ヶ浜あたりというのもあるせいか、『山の音』はどことなく昔の建築的側面も感じられて好きだ。主人公の60超えの男が日本家屋の大黒柱みたいに思えてならない。だんだんと古くなって、地鳴りのような山の音を男の内側から響かせているのを男は知らないんだと思う。山の音と海鳴りとが共鳴して、更に男の内側の何かと共鳴している───もしかしたら書いた作家自身、そんなつもりなかったかもしれない。

『山の音』は、川端康成の長編小説。戦後日本文学の最高峰と評され、第7回(1954年度)野間文芸賞を受賞。川端の作家的評価を決定づけた作品として位置づけられている。老いを自覚し、ふと耳にした「山の音」を死期の告知と怖れながら、息子の嫁に淡い恋情を抱く主人公の様々な夢想や心境、死者の夢を基調に、復員兵の息子の堕落、出戻りの娘など、家族間の心理的葛藤を鎌倉の美しい自然や風物と共に描いた作品。繊細冷静に捕えられた複雑な諸相の中、敗戦の傷跡が色濃く残る時代を背景に〈日本古来の悲しみ〉〈あはれな日本の美しさ〉が表現されている。
『山の音』川端康成あらすじ

海が生命の起源としたら、海鳴りは生への賛歌でもあり、山鳴りは人生の登り下りの足音でもあるかもしれない。それもひとりではなく、時代そのものの足音だ。柱が丁度良い響きを持つくらいに古くなると、海鳴りと山鳴りの共鳴が始まるのだろう。

ぼくがとりとめもなく、そのようなことを説明していると、友人の気配は部屋から消えていた。

本を閉じて、ベランダに出た。風が吹いてとんびがときどきとおくを旋回している。波の音が沈黙の中で、無限に木霊し、ぼくの心の底の蒼に堕ちていく。沈黙には感情の区別がない。つぎの感情の昂まりは、その沈黙によってより一層深く広がってゆく。それはただの対幻想の連鎖、あるいは愛、真実や世界の《深淵》と呼ぶひともいるかもしれない。その《深淵》に消えた友人は多分向かったのだろう。

鼓動しはじめた生命の死を知ったのはそれからすぐあとだった。

「月の夜が深いように思われる。深さが横向けに遠くへ感じられるのだ」
『山の音』川端康成

この物語はフィクションです。

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