カフカとカミュ、そしてゼーバルト
『カフカ短編集』『審判』『城』を久しぶりに再読している。
カミュが『フランツ・カフカの作品における希望と不条理』(『シーシュポスの神話』新潮文庫付録として収録)にて、次のように述べている。
さすがとしか言いようのないカフカの『審判』と『城』を取り上げてのカミュの端的なカフカ論。
カフカの代表作は『城』『審判』であろう。
僕は中でも『審判』が好きで、クッツェーが『恥辱』のセリフで流用したのを読み、あまりにドンピシャな場面での適用に感動した。
僕はカフカ、カミュ、そしてサルトルに思い入れがある。つまるところ不条理と論理の狭間を生かされるヒューマン・リレーションが描かれた作品が好きということだろう。
僕の浅はかな読み込みで、彼らの魅力と作品を伝えられるか疑問である。カフカとカミュを取り上げることにいささか抵抗もある。
それでどうしてカフカを語るか?となると、実は、ゼーバルトの今読んでいる『目眩まし』がカフカを題材としているからなのだ。
第二回ひとりゼーバルト祭の前にカフカ復習の楽しみが増えた。
岩波文庫の『カフカ短編集』は前述の『目眩まし』解説をされている池内紀さんの訳でもある。
今回は特に『狩人グラフス』が読みたかった。
静かに街に入ってきた小舟と運び込まれた棺。
生と死のどちらに属するものなのか曖昧なままの狩人グラフスが何百年も小舟で世界を漂っている。
死んでいることも認識しつつ、生きていることも認識している不思議な漂流者。
彼の話を穏やかにじっと聞き入る市長は死者の国の者なのだろうか。
カフカの自嘲じみた皮肉がいまの僕には生死の狭間よりダイレクトに響く。
さて、カミュ曰くカフカは『城』によって、キルケゴールの思想と合致し到達した。〈城〉に採用されるという〈恩寵〉と日常に服従することの倫理をもとに暮らしている城下の村人たち。そこに大きな希望を抱いてやってきた測量士K。〈城〉の役人からの愛を拒絶して村から離れて暮らすバルナバス一家。〈城〉≒神を否定するものを通して神を見出そうとする。見方によっては政治宗教によらず何らかのイデオロギーを持とうとする人間社会そのものにも見えてくる。
『狩人グラフス』の漂流者もそうした神を否定したあるいは神に見棄られた者に見えなくもない。《希望》を捨てきれずに《異邦人》のようにして《街》に流れ着く。
生死の不条理に近づけば近づくほどに神を見出そうとする、あるいは、確信するひとたち。
不条理と論理の狭間を夢に移し変えるカフカと不条理を覆う社会を描いたカミュ。狭間に流れるヒューマン・リレーションを時間あるいは歴史とその空間という視点から描いたゼーバルト。
ことしのはじめ辺りからChatAIについての議論含めてAIのもたらすリスクについて記事を読む機会が多くなった。
カフカの独特の夢を果たしてAIが実現できるのか?カフカのテキストのパターンをを学習させ、古代から現代までのひとの、そして地球の歴史と文体のパターンを入力したらカフカの〈ような〉作品は案外、容易にできてしまうのかもしれない。アインシュタインは「創造性こそが知性の遊び」とも言っている。
ハーバード・ビジネス・レビューでデイビッド・デ・クレーマーらは、「アルゴリズムで生成されたコンテンツに対する大きな反動「テックラッシュ」が燃え上がるというものだ。合成されたクリエイティブコンテンツが世の中にあふれ返れば、本物の創造性が再評価されて、それにプレミアムが払われるようになることは十分考えられる。」とも述べている。
人力では貯蓄不可能なビッグデータ=知識をバックボーンにするAIの知性をどう定義づけるのだろうか。パターン認識の最適化を知性と言うのか?もしそうならAIこそ創造力があるようになってしまうのかもしれない。
こうして少し現代の行きすぎたテクノロジーのコントロール権やテクノロジーをパートナーとして活かすための基礎(プロンプトエンジニアリング)スキルがないままに利用されていくことに憂慮しつつ、僕の読書はカフカ、カミュらを挟んで、ゼーバルトの『目眩まし』ヘと移行する。
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