春のあはひ── Ave verum corpus
真夜中、リストのピアノ編曲モーツァルトのアヴェ・ヴェルム・コルプスが僅かに聴こえてくる。
木々を揺らす風が窓を通り抜けて、音がそこに重なった。
砂埃
花粉
塵
薄いペールがかった空
波の静けさ
星の少なさ
紫の夜
うしかい座
うみへび座
おおくま座
おとめ座
かに座
しし座
しし座───僕の星。
ネメアの森の谷の人食い獅子。
蛇の両親を持つ獅子はゼウスの12功業のひとつとして命を受けた英雄ヘラクレスによって死闘の末、窒息死させられ天空に昇った。
獅子が昇天したのは春なのか夏なのか、僕は知らない。
春の空を見上げると、月の側で一段と明るく輝くレグルスが見える。
ミモザ
桜の蕾
沈丁花
白木蓮
庭一面をクリーム色に変えるあの柔らかで艶やかな肉厚の花びらが記憶の海で舞う。
妻がどこか遠くまで伸びた影のようになって、ナイチンゲールになる。
糸の切れた凧を追いかけて小鳥は風に逆らう。
元の空でたゆたえるようにと。
凧はやがてガラスの金魚鉢に落ち、
腐った金魚のように泳ぐ。
ここを抜け出して蝶になる約束をした尾腐れ病の金魚。
終止の和音が天空に届き、静けさが優しく打ち寄せる波のようにやってきた。
静寂───無邪気な寝息と啜り泣く声と寝たふりをする自己愛の繭で全身を覆う金魚。
彼らを置いてレグルスに還るなんてやっぱり出来ない。
モーツァルトは死の半年前、ラテン語の典礼文Ave verum corpusに音楽をつけた。
Ave verum corpus, natum
de Maria Virgine,
vere passum, immolatum
in cruce pro homine
cuius latus perforatum
fluxit aqua et sanguine:
esto nobis praegustatum
in mortis examine.
無垢な音楽だけが生死を讃歌することを赦されるのだろう。
春の夜はますます感傷が花開き、欲望はとどまることなく、僕はまた言葉を陳腐化させる。
ナイチンゲールの子宮が温かく痙攣しひとつに溶けて、産道を泳ぐ。
それは夢よ
そうしてまた僕は、永劫回帰から逃れることなく、生まれた───ナイチンゲール、聞こえてるかい? きみのことがとても好きなんだ。だからもう眠ろう。しっかりと目を閉じて。
僕のナイチンゲール、春のあはひ。
感傷、嘘、虚勢、欺瞞、嫉妬、憎悪、憎しみ、偏見、差別、貧困、飢え、汚らしさ、いやらしさ、穢らわしさ、隷属、服従、絶望、諦め、自由、叫び、寒さ、暑さ、喉の渇き、痛み、怒り、悲しみ、血、血、血、一瞬の星の爆発、永遠の光、無邪気な笑い声、握りしめる誰かの確かな温かな手、冷たくなる虚ろな瞳、血、陳腐な言葉、血───血塗られた手で二度と小鳥が泣かないように僕は絶頂を目指して、しっかりと、痙攣しだらしなく滑る繭の歴史を締め上げながら往復する。
砂埃
花粉
塵
薄いペールがかった空
波の静けさ
星の少なさ
紫の夜
うしかい座
うみへび座
おおくま座
おとめ座
かに座
しし座
ミモザ
桜の蕾
沈丁花
きみの白木蓮───それは夢よ─── きみの白木蓮
何処にもいけない肉厚の花弁、愛の花から溢れた残骸は名付けられることもなくティッシュに丸められ、ゴミ箱へ投げ入れられた。
剥き出しの感傷───それは夢よ、飛べない言葉、破壊された空間、葬り去られた時の断片、遠い星々の死と生。
そうしてまた僕は永劫回帰から逃れることなく、歴史の中で生まれ、《欲望》と名付けられ金魚鉢の中で泳ぐ───ナイチンゲール、聞こえてるかい? きみのことがとても好きなんだ。だから目を覚まして。
水平線に燃える春が昇るのを見た。
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