編集者K氏の想い出②/雨の中の猫
「プロの作品を読む」という講座の中で、一番印象的だったのが、ヘミングウェイの『われらの時代』についてだった。間章を含め、かなりの時間、この本と向き合った。
そして、その中心となったのは、「雨の中の猫」についての授業だった。
この「雨の中の猫」については、短編小説として高い評価がある、その解釈についても、数多く語られている。
ほんの数ページの話なのだが、この話だけでも読めるし、間章を含めても興味深く読める。『われらの時代』全体の中で読んでも、より味わいが増してくる。
書かれている時代背景について調べ、場面について絵を描く。何度も何度も読み、課題の文書を書き、検討が行われた。
そうしたことを何度も繰り返した。
そうした中で、僕はひとつの文章を書いた。
以下のものとなるのだが、この文章は、K氏にとても褒めてもらった。
こうした解釈、見解があることで、どんどん作品が深くなり、可能性が広がっていくんだ、と。
今となっては曖昧な記憶ではあるが、そうしたことを、興奮しながら話してもらった記憶がある。
もし、時間のある方は、ヘミングウェイ『われらの時代』を読んでみて欲しい。
(注意)
日本でこの作品の翻訳は、5人程の訳があります。タイトルは「雨の中の猫」「雨のなかの猫」と、翻訳によっても違っています。文章の多くは違っており、解釈の違いということを、深く感じさせてくれます。そして、まだまだ、違う解釈の可能性もあるように思います。
「Cat in the Rain」は、ヘミングウェイの短編小説の代表作として、世界中でその解釈について語られていて、とても興味深い作品だと言えます。
https://en.wikipedia.org/wiki/Cat_in_the_Rain
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「塹壕の中から」(ジョージを通しての『雨の中の猫』)
この物語を何度も読み、他の人の意見を聞いていく中で、少しずつジョージをいう存在が大きくなっていった。最初に読んだときにはほとんど存在感はなかった。いつも静かに本を読んでいる。何かを語るわけではない。妻はそうしたジョージに対して、しだいに気持ちが離れていくように感じていた。子猫とは、妻を象徴している。そうした読み方以外には考えていなかった。
「子猫はジョージ」である。このように考えてから、この物語の印象が変化してきた。雨の音の響きすら違ってきたように思える。ジョージという存在をこの物語の中心に置いて考えてみた。実はジョージの影がいたるところに隠されているのではないかと。それは今を生きるジョージだけでないのかもしれない。
彼は戦争で心に傷を負っている。砲撃があり、兵士は血を流し、いつ自分が死ぬのかもわからない。灰色の景色しか見えない。彼は塹壕の中に身を伏せる。雨に打たれ、子猫はテーブルの下で小さくなっている。震えているのかもしれない。雨の音の間には砲撃の音が聞こえる。
現在のジョージには明るい色彩というものは目に入らない。しかし、以前は彼も晴れた日にはこの太陽の下で絵を描いていたのではないだろうか。ホテルからの景色は、過去から現在へと移り変わる。
アメリカ人の妻は、初めから子猫をジョージだと感じたわけではない。彼女は目に入った子猫をかわいそうだと思った。彼女はやさしい気持ちを持っている。毎日、神への祈りをかかすことはない。日々の幸せを神に感謝し、神の愛を信じている。これは何も特別なことではない。疑うことなく神の存在を信じている。絵描きたちが集まる明るい色彩を感じることのできる広場は、そんな彼女の世界なのかもしれない。
しかし、彼女の描く絵に灰色の斜めの線が描かれる。雨の中で傘をさすこともない、ゴム・カッパを着た雨に打たれるジョージは、妻に何かをわかってほしいと思っている。この時に、妻は初めてジョージが戦争で受けた傷を感じる。
子猫はジョージである、という考えに固執するつもりはない。矛盾しているところもあるだろう。何が正しいか、そうしたことではない。子猫は妻である、という考えは、この物語をつまりはヘミングウェイの顔を正面から見る見方だろう。そして、ジョージを猫とする見方はやや角度を持って斜めから見る見方になるのではないだろうか。
この物語を考えていく場合、ジョージからの角度の方がヘミングウェィの正面からは見ることのできない凹凸、影になっている部分、苦悩した表情というものがよく見えるような気がした。『雨の中の猫』をジョージという人物を中心として見ていくことで、私はしだいに彼を愛しく思えてきた。彼には再生はないのだろうか、希望というものはないのだろうか。
たぶん、妻もジョージをそんなふうに見たのではないだろうか。ジョージが戦争から帰ってきて、どうしてこんなふうに変わってしまったのか。彼女にとって「戦争」というものは言葉でしかなかった。しかし、雨の降る中、濡れないように小さく体を雨の中でうずくまっている猫に、ジョージの体験した戦争というものを見たのではないだろうか。
妻は彼を、助けてあげたい、一緒に明るい色を感じたいと願う。ひょっとしたら神に祈ったのかもしれない。「お願いです。お願いです」と。神は常にそばにいて、どんな悩みも希望も聞いてくれる。威厳をたたえている、大きな手で希望を語ってくれる。神は、ジョージを、自分達を助けてくれるのではないだろうか。
猫は彼女にとって、希望でもある。メイドはそんな彼女を笑ってしまう。しかし、真実というものは知らない方が幸せなのかもしれない。雨に濡れないようにずっとコウモリ傘で守ってあげている。
ジョージは聞く耳を持たずに本を読んでいる。彼もかつては神に何度も何度も祈ったのだ。彼は妻を愛している。だから真実を語ろうとは思わない。希望を語る彼女には返す言葉はない。
メイドは神の使いである。ジョージは神の答えというものを知っている。
失われてしまったものはもう帰らない。絶対に。将来の希望もない。それはジョージだけのことではない。実はアメリカ人の妻も同じなのである。彼女もジョージと同じ絶望の中にいた。そうした時代の中に生きている。
雨の中で小さくうずくまっている猫はジョージだけではなかった。
神(絶対的な真実)はこの物語の最後に、妻と読者(われら)にこのことを示唆するのである。
希望の無い世界、絶望の世界。それはどんなものなのだろうか。ジョージはどんなふうに考えていたのだろうか。彼の心は死んでいたのだろうか。ジョージは本を読みつづけている。この行為は死んでいることなのか。いや、そんなことはあるはずがない。彼は旅をしているのではないか。書物を読むことは、時間を超え場所を超え、真実を探す旅をすることだ。
「われら」も答えを探す旅をしていく。空虚な世界を通りぬけて、行きつく暖かな場所はカフェである。長い歳月をかけ、たどり着いたジョージは「われら」を迎えてくれるのではないだろうか。
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