思い出はいつも味噌の味。【ブタコヤブックスご近所訪問】
名古屋の「笠寺」という町には、私たち家族の思い出がたくさん詰まっている。そして、その笠寺という町に、私たちは本屋を構えようとしているのだ。
そんな笠寺に住んだ妻の祖父が亡くなって数年が経つ。
生前、祖父は入れ歯を使わなかったため、何を言っているのかがよくわからなかった。亡くなる直前までタバコを愛し、大病することなく亡くなったのだ。
婿のわたしにも優しく声をかけてくれた。何を言っているのかは聞き取れず、長く一緒に暮らす人の通訳を必要としたが、優しい笑顔から、歓迎をしてくれていることだけは伝わった。
彼は、笠寺の町の商店を愛していた。とりわけ「恵土」という鉄板焼屋を愛していた。私がお邪魔した日には、わざわざお土産を買ってきてくれることもあった。そして私の妻も「恵土」を愛していた。
妻の幼少期の話。学校から帰ると、机の上に、恵土の包装紙に包まれたお土産が置いてあることがよくあった。中からは食欲をそそられる、味噌のいい香りがする。妻が実家を出るまでずっと、何かがあるたびにそれは机の上に置かれ続けた。
「恵土だ!」
茶色を通り越した、漆黒を纏う味噌串カツ。
一つ一つが大粒の、とても食べ応えがあるどて串。
恵土の包装紙を見るたびに、幼い頃の記憶が蘇るそうだ。
祖父は生粋の名古屋人。味噌が大好き。どて煮を自分でもこしらえる。夕方と言うにはまだ早すぎる時間帯から味噌が入った鍋をぐつぐつと焦がし、夕食と言うにはまだ早すぎる時間帯に、ひとり食卓で漆黒のどて煮を啜っていたらしい。さすがである。
妻が娘を出産したあと、退院し、妻の実家に一時帰宅した際にも、祖父は恵土を買ってきてくれた。妻にとっては思い出の味。私はそのとき初めて恵土の味噌串カツに出会った。これは美味しい。
娘が大きくなり、妻の実家に遊びに行った帰りには、テイクアウトに寄ることも増えた。家族に息子が増えた今、我が家では恵土の串は取り合いになる大ごちそうである。恵土の包装紙を見るたびに、亡くなった祖父を思い出すのは、妻だけではなくなった。
「もう今日は中で食べて帰ろう」という日もある。鉄板で焼かれるホルモンと野菜を相棒に、米をかっ食らう。そしてビールで流し込む。「鉄板、熱いから、やけどしちゃうから、気をつけてね。」なんて会話を子供としながら上機嫌で食べる鉄板焼きは、最高においしい。何よりあの昔ながらのお店の空気感が最高だ。
昔ながらの鉄板焼き屋さんも、本屋同様、徐々になくなってしまっている。どこにでもある、綺麗で、便利で、大きなお店には出せないモノってのが、個人商店には必ずある。
恵土にはそれがある。我々には思い出がある。タッチパネルで注文はできないし、猫ちゃんロボットが運んでは来ないけれど、娘や息子が大好きな場所になった。便利さでは測れない、その場にしかない時間と味。我々の本屋も、恵土に学ぶことが多い気がする。
優しかったおじいさんは亡くなってしまったけれど、恵土はいつまでも残っていてほしい。こうやって家族4人で囲んだ恵土の食卓のことを、息子や娘はいつの日か思い出してくれるだろうか。思い出はいつも味噌の味。こうして次の世代へと引き継がれていくのだ。
しかしだ。最近になって発覚したことがある。
おじいさんと同居をしていた妻のお義母さんに、恵土とおじいさんの話を聞いたのだ。
「あ〜、恵土の串カツ?あれはねぇ、おじいさんが、競馬に当たったときだけ買ってきてたのよ。
だからね、あの包装紙の包みが置いてあるたびに、今日は競馬に行ったんだな、当たったんだな…?って、いっつも思ってたわ」
なるほど、思い出は人それぞれである。