お母さんの涙、息子の涙
新米精神科医のころ、中学生の不登校相談を受けた。
診察には母親が同伴。母一人子一人の家庭である。
仮にK君としよう。こちらがK君に問いかけると、彼はボソボソッと小声で答える。それにかぶせるようにして、母親が非難めいた言葉をビシッとK君に投げつける。K君が不満そうに母親を見ると、
「おいなんだその目は! 言いたいことがあるならはっきり言ってみろ!!」
といった感じで、私の前でちょっとした口論となってしまう。そんな二人を見ながら、カルテにこっそり、
(ここで口論が始まる)
と記載した。
二人のケンカ(といっても主に母親の非常に厳しい叱責がメイン)を見ながら個別に診察することも検討したが、今回はある一つの駒を握っていたので、ケンカする二人を引き離すことは敢えてしなかった。
その駒とは、実は母親のほうを以前に診察したことがあり、彼女が息子を愛していること、また息子もすごく優しいということを知っていたことだ。
(夫婦や親子や兄弟姉妹はそれぞれ別々の医師が担当するのが原則だが、医師数が限られた環境だったため、こういうことがたまにあった)
ケンカが一息ついたところで、
「お母さん、大体いつもこんな勢いですか?」
と聞くと、母親は苦笑いして「えぇ」と答えた。そこでK君に、
「さっきみたいにポンポンポンッ!て勢いよく言われたら、ちょっとキツイね」
と言うと、K君は突然下を向いて、静かに泣き出した。そんなK君を厳しい目で見つめる母親に、私はゆっくり話しかけた。
「お母さん」
「はい」
「今度から言いたいことを5秒だけ我慢してみましょうか。ご飯のおかわりと一緒ですよ。5分待てば、もうおかわりしなくても良いかなって感じる時があるじゃないですか。5秒待って、それでもどうしても言いたいってことは、それはもう言っちゃえば良いですよ」
私がそう語りかけると、母親は、
「私は……、10秒待たないとダメかも」
と苦笑し、それから、すっと涙をこぼした。
女手一つの子育ては大変だ。
彼女は日給6000円の肉体労働をしており、毎日くたくたになって帰ってくる。我が子は今日も学校に行っていない。昼間はゴロゴロ昼寝している。
なぜだ。
こんなことで大丈夫なのか。
父親がいないからダメなのか。
やきもきする。悔しくなる。哀しくなる。
そんな時に、息子の携帯電話の料金が跳ね上がっていることに気づいた。問いただすと、携帯ゲームで課金していた。
ゲーム代が6000円。自分の一日の日当だ。
炎天下、重いものを持って運んで持って運んで持って運んで……。
背中が痛い、腰が痛い、膝が痛い。
帰宅して、痛さで泣いたこともある。
そうやって手に入れた6000円が、学校に行かない息子の携帯ゲーム代になって消えてしまった。
怒りと疲れから、
「学校も行けないくせに、携帯でゲームばかりしやがって。体調不良なんて言っても元気じゃないか」
と心ないことを言ってしまう。
そんなこと、可愛い息子に言いたくないのに、疲労困憊した体では心のブレーキがきかない。息子とギクシャクするたびに、やり場のない憤りと切なさがこみあげてきて、つらくなる。
母親が涙声で語る想いを、K君は泣きながら聞いていた。
「お母さんの日給が6000円って、知ってた?」
首を横に振るK君。
「お母さんのこんな気持ち、知ってた?」
下を向いたまま、また首を横に振る。
「そうだよね。でも、そうはいっても、キツイこと言われたら、やっぱりキツイよな」
今度は首を縦に振って、涙をポロリ。
「お母さん、学校に行くという目標、やめませんか」
「はぁ……」
「だって、登校を目標にするから、学校に行っていない姿を見てイライラするし、どうしたら良いか分からなくなるんでしょ」
「そうですね(笑)」
「K君、君は学校には行かなくて良いから、まずは昼寝をゼロにしよう」
「はい」
「それで、今度の診察までに何日昼寝せずに過ごせたか、お母さんにチェックしてもらうと良いよ」
「はい」
「それからお母さんは、今度の診察までに言いたいことを5秒、いやちがった、10秒我慢する。できなかったら、それはK君がチェックしてあげよう」
これには、K君と母親、チラリと視線を合わせて苦笑い。
「最後にもう一つ。K君は学校を休んで、お母さんの仕事現場に連れて行ってもらいなさい。親が働いている姿を見るのは、とても良い社会科見学になるよ」
何かを一生懸命に考えているような顔のK君は、真剣な表情で「はい」と答えた。
「お母さんが、どんなことをして6000円もらっているか、見ておいで」
また顔をクシャクシャにして涙をこぼし始める母親。
「不登校相談だったのに、学校を休めって変な話なんだけどね」
これで3人笑って診察終了。
めでたしめでたし?
そんなわけがない。
山あり谷あり、まだまだいろいろなことを乗り越えないといけない。
そもそも、K君にとって、いや、他のどんな子どもにとっても、「学校に行くこと」は、決して人生のゴールなんかではないのだから。
※年齢・性別・状況・話した内容など、過去にたくさんみた不登校相談を組み合わせた架空のエピソードである。
私が過去に書いた不登校についての記事。