『ルポ誰が国語力を殺すのか』を読んだ感想①
・本書の構成
この本は、教育の専門家によるものではない。
不遇な子ども達に寄り添うルポライターが感じた「国語力」についての仮説を、自身のルポの内容で裏付けたものである。
本書が特に注目しているのは、著者が取材した公立小学校の四年生の国語の授業でのワンシーンだ。
『ごんぎつね』の葬儀の描写で「鍋で煮ているものは何か?」という問いに対して、子どもの多くが鍋で煮てるのを「兵十の母親」だと答えた。
これをもって著者は、今の子どもたちは他者の心情を想像する力、ひいては「国語力」が欠落しているのではないかと危機感を抱く。
次に本書では、非行やゲーム依存、SNSいじめ。不登校など、望ましくない境遇にある子どもの事例を挙げて、彼(彼女)が抱えている問題の根底には、自分の気持ちを言葉にできないこと(国語力の欠落)があると述べる。
そして、成果をあげている私立校などの取り組みを紹介し「国語力」を回復させる道筋を示す。
以上が本書の大まかな構成である。
この本を読んだ印象として、本書の「子どもの国語力が危機的なレベルで低下している」という主張は、かなり勇み足なように思えた。
・『ごんぎつね』のエピソード
例えば多くの人が指摘するように、本書の『ごんぎつね』のエピソードは「国語力」の低下を示すものとは言い難い。
『ごんぎつね』の葬儀のシーンで、子どもの多くが鍋で煮てるのを「兵十の母親」だと答えた「誤読」の理由は、文脈を読めないことというよりは、「当時の田舎では仕出し弁当などはなく、参列者に振る舞う食事は皆で用意した」という知識だろう。
このように、言ってしまえばジェネレーションギャップに過ぎないものを「社会常識の欠如」みたいに言うのは、かなり違和感を覚えた。
また、上記授業のシーンを素直に読めば、子どもたちは少ない材料を組み立てて、その時代の人の立場になり、自分たちなりの答えを導いたようにも思える。
むしろこれは、本書でいう国語力(想像する力や考える力)をまがりなりにも発揮させた結果のように思えたのだけど、違うのだろうか?
このように上記『ごんぎつね』の件は、キャッチーなエピソードではあるが、国語力の低下の裏付けとしては微妙である。それに極端に国語ができない子ども達についてのルポを加えたとしても、やはり一般的な子どもの国語力が低下しているという主張の裏付けにはならないように思われる。
しかし本書では、読者の目を引く『ごんぎつね』のエピソードと、ボトム層の悲壮なケースと、を並べることで、全体としてなんとなく「最近の子どもの国語力が死んでる」という、それっぽい印象をつくっている。
その点で、『ごんぎつね』のエピソードは重要な部分なのだろう。実際、このエピソードを除けば、この本は教育格差のボトムとトップの両極端な事例を紹介するものになってしまう。
・タイトルについて
あと個人的に一番気になるのは、「誰が国語力を殺すのか」という、人の不安を煽るようなタイトルである。
本書では、「国語力」が低い人の間で、直感(バイアス)を刺激するフェイクニュースが蔓延することを危惧しているが、本書のタイトルは、いかにも「犯人探しバイアス」を刺激するようなものになっていて、残念な感じである。
・まとめ
煽るようなタイトルも、『ごんぎつね』のエピソードを使ったそれっぽい話も、本を売るための戦略なのだろうか。
でもそんな扇情的な見出しを使うことや、足りない事実を並べて全体としてそれっぽい話を作るようなテクニックは、国語力を涵養する文章とは程遠いネットニュースのやり方ではないか?
そういうのが、本書をチグハグな印象にしているように思われた。
また『ごんぎつね』の件の話になるが、小四と言えば活字を読む能力が開花し始める時期で、これから「誤読」を重ねて読解力は鍛えられるものだと思う。
それを取り上げて「ハイこれありえない誤読〜!子ども達の国語力ヤバいです〜!」みたいにやたら騒ぎ立てることは、本当に子どもの「国語力」にとどめを刺すことにならないか、それこそが心配だと思った。