【杜のラボ】「本を読む」ということは。
こんにちは。4月7日(木)20:39です。今回のnoteでは、本を読むという「行為」について、その「創造性」を考えてみようと思っています。よろしくおつき合いください。では。
ぼくは自分のことを、少しばかり本を読む人だと考えているのですが、その際に心がけていることが2つほどあります。1つには「線を引きながら読む」ことであって、もう1つが、そのためにも「買って読む」ということです。これを全ての本について行っているわけではないのですが、状況が許される範囲で「買って」「線を引いて」います。
「本は借りて読む」とか、「きれいに読んで読了後に売る」方には理解できないでしょうが、ぼくは自分の方法を、押しつけるためにこの稿を書いているのではありません(その代わり、何事かを押しつけられるのもゴメンですが)。今日書いてみようと思った直接のきっかけとは、本を買って、線を引きながら読むというのは、そのこと自体が「創造的営為」であると気がついたからです。それを今回は説明してみようというわけです。
結論めいたことを先に書きます。それは、本に「線を引く」ことは、この世でたった1冊の「作品」を生み出すのに他ならないということなんです。
もう少し書きます。「本を読む」とは、著者との「対話」への参加に他なりません。読書会等で複数で同時並行で読む場合は違いますが、基本的には、著者との一対一の対話です。これはある意味、密室で行われる行為にも似ています。
同じ本を、10人の人が読めば、それこそ10通りの読み方・読まれ方が立ち上がります。ぼくにとって、本に線を引くとは、そうした「読み方」を本そのものに「刻印」することだと考えます。つまり、自分にとって大切だと思ったところ・感じ入ったところを本に刻みつける。あるいは、クローズアップさせる。そうしたことに該当するのだと考えています。
それはまた、「読んだその時」を刻印するものでもあるので、ある意味では再読を促す行為でもあろうかと思います。以前読んだ時の「私」と、再読する時の「私」は、違っていてしかるべきものです。つまり再読とは、著者との対話のみならず、ある時点の「私A」と、現時点での「私B」との、少なくとも3者間での対話になるのではないかと思います(「再読」については、後日改めて言及してみたいと考えます)。
著作とは、読み手によって読まれることで、初めて完結するものだとぼくは考えています。受け止められることが大切なんだろうと思っています。つまり、本を読むということは、その「対話の円環」を閉じることです。閉じ方は、読み手によって様々です。そして、本に線を引くとは、読み手が自分を本に刻印するということであって、その意味でもこの世でたった1冊だけの「自分の本」を完成させる行為であるのだと考えています。ですので、本を読み、線を引くということは、創造的な営みに他ならないとぼくは考えています。
そろそろ「ボロ」が出てきそうなので(もう出てるかな?)、今回はここまでとします。また何か思いついたら書いてみます。最後までお読みくださり、ありがとうございました。それではまた!
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