水晶の馬
本棚があるとするだろ?
そこから一冊抜き取ると、さてどうなる。
そうさな。一冊分のスペースができる。そして右か左か知らないが、どちらかにある本がことりと倒れて、隙間は直角三角形の形になるわけだ。
そこの隙間にはな、馬が住むんだ。本一冊よりも小さいが、まあ、じゃがいもよりは大きいかな。そんな馬が住んでいる。
だからな、たあ坊。お前さんが本屋で本を買おうとするときには、その本を抜いた後でどういう隙間ができるか考えなくちゃいけねえ。必ず、直角三角形だ。二等辺三角形でも、平行四辺形でもいけねえぜ。
なんの中身の本を買うかなんてことは、その次にしといて問題ねえ。本なんてものはな、みいんな違うことを書いているようで、おんなじことを書いているのよ。ああ、人生はくだらねえってな。
いいか、たあ坊。隙間だ。人生で大切なのは、隙間が直角三角形であることだ。それさえ気いつけてりゃあ、人生の荒波なんざどんぶらこだ。
そんなようなことを、僕の父の兄、つまりは伯父さんだが、その人が言っていた。その人は無類の酒好き馬好きで、狂っていると言ってもいいくらい、その二つには血道を上げていた。
幼少の頃の僕は物事の善悪など分からない内に伯父さんのそんな話を聞かされたものだから、本屋に行ってもどんな本を読みたいか、よりも本を抜き取った後にきちんと直角三角形ができるか、ということばかりを気にしていた。
その伯父さんは、僕が十歳のとき、酒に酔って馬に近づいて、後ろ足で蹴り飛ばされ、胸の骨を砕かれ、その骨が内臓に突き刺さって死んだ。想像できないほど痛かっただろうに、伯父さんの死に顔は笑顔だったらしい。それを見た父は、「兄いは正真正銘の馬狂いよ」と呆れながらも感心したという。
覚えていないことなのだが、僕は伯父の葬儀が終わった後に、みんなが花を伯父の棺に添えていく中で、花と一緒に、当時はまっていた司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を中に入れた。親戚になんで本なんか、と問われた僕は、「だって司馬遼太郎の名前にも、『竜馬がゆく』っていう作品名にも、『馬』が入ってるじゃないか。伯父さんにぴったりだよ」と言って得意げに胸を張り、親戚を呆れさせて、あの伯父にしてこの甥あり、と言わしめたらしい。
今も僕の部屋には、三巻だけがない『竜馬がゆく』が本棚の中に収めてあり、二巻と四巻の隙間は直角三角形にしてある。
本棚の隙間の馬、という存在は、実は一度だけ見たことがある。あれは、僕が大学生で、本屋でアルバイトをしていたときだった。
当時は政令指定都市など、人口が多いところを除けば、DVDレンタルとの複合店が多かったものだが、大学の近くにあった本屋は、まだ息も絶え絶えだったけれど生き残っていた個人書店だった。
そこでアルバイトをしていたのは、本が好きだったからというよりは、店の手伝いをしている、店主の娘のカナさんに一目ぼれしたからだった。最初は毎日通い詰めて単価の安い文庫本などを買っていたのだが、こんなことを繰り返していたら、いくら金があっても足りない。じゃあどうするか。そうだ、アルバイトすれば、お金も稼げるし、カナさんには近づけて、話をする機会もあるかもしれないし、一石二鳥だ、と飛び込んだのが始まりだった。
僕はそれなりに(とても偏っていたけれど)本の知識があったということで、文芸書のジャンルを自分の担当としてもたせてもらえることになった。カナさんは主に文庫を担当していて、文芸書で出たものが一定期間経って文庫に落ちる、という大体の流れがあるために、共通の話題は探しやすかった。
ある日、閉店してから、カナさんは売上金の清算、僕は売り場の整理をしていたときのことだ。
海外文学の棚で、ジョイスの『ユリシーズ』と『フィネガンズウェイク』が並んでいたはずの場所が、『ユリシーズ』の最終巻が抜けて、『フィネガンズウェイク』が傾いて、直角三角形を作っていた。
それは見事な直角三角形だった。僕がそれまで見てきた中でもダントツだったし、伯父さんだってみたことないほどのものじゃないか、と思った。
大学の近くとはいえ、ジョイスが売れるなんて珍しいこともあるもんだなあ、と思ってはたきで棚を叩きながらその隙間に顔を近づけ、覗き込むと目が合った。
ジョイスの生んだ、言葉をみじん切りにして、ぐつぐつと煮えたぎる鍋の中でごった煮にしたような暗黒が、その隙間の中には満ちていて、隙間の奥には同じ黒なのに浮かび上がるように濡れて煌めいた双眸が僕を見つめていた。
あ、と思ったときにはその双眸が闇の中から近づいてきて、蛍光灯の灯りの中にその身を晒していた。
ジョイスの隙間にいたのは、ガラス細工のように透明で、光を星の瞬きのように跳ね返す、水晶の馬だった。
掌に乗るほどの、伯父さんの言うようにじゃがいもくらいの大きさの馬だった。
水晶の馬は僕の姿を見ても臆すことはなく、顔を完全に光の下に晒すと、顔を上げて僕を見て、あいさつをするようにぶるぶると鼻を鳴らした。
水晶の馬の表面は、まるで彫像のようだった。滑らかな質感で馬の似姿を作るのではなく、あえて鉋で削ったような、鋭利で平たい、無粋とも言える断面を残しておくことで、それが唯一無二の水晶の馬であると証明するような、そんな作為が感じられた。
誰の作為だろう、と僕は首を傾げた。神、という言葉が近いのかもしれないけれど、それは近くて遠い答えのような気がした。水晶の馬を作ったのは神でもなければ人間でもない。でも、神であって人間でもある誰か、だと思った。
「なに、この子。かわいい」
いつの間にか横に立っていたカナさんが、いつもよりオクターヴ高いんじゃないかと思える声を出した。
水晶の馬は僕からカナさんに視線を巡らせると、前足を上げていなないた。その声は、夏の風鈴の音に似ていた。突然冷たい風が吹いて、家の中を吹き抜けていき、縁側の風鈴を揺らして奏でる、その音に。
「本棚の隙間には、馬が住むと教えられて育ったんです。僕も見るのは初めてですけど」
「ふうん。物語の中から逃げてきちゃったのかしらね」
そう言ってカナさんは水晶の馬の方に手を伸ばし、たてがみをそっと撫でた。「不思議な手触り。固いのに柔らかい」
水晶の馬は首を巡らせてくすぐったそうにすると、棚から飛び降りて、平台の本の上を駆け回った。本の山は障害物のように高かったり低かったりするのだが、それを乗馬の競技でもこなすかのように、水晶の馬は軽々と飛び越えて遊ぶ。すると、水晶の馬が本を踏みしめるたび、本の表面に言葉がしゃぼん玉のように浮き出てきて、周囲をぷかりぷかりと漂う。やがてその言葉のシャボン玉は弾けると、シャワーのように文字が降り注いで、それがあちこちで起きて本の上にいくつも虹がかかる。
降り注いで本の上にばらばらと散った言葉は、水たまりのように本の上に残っているのだが、その内のいくつかは水たまりにならずに、カナさんの呼吸に合わせて鼻から吸い込まれていく。
カナさんはおもむろに僕の方を向いて、ほんの少し頬を紅潮させながら、「タカアキくん。わたしのこと、好きなの?」と訊いた。
僕は驚いて言葉に詰まったが、水晶の馬が僕の左手に軽快に飛び乗って、腕を伝って肩に登って行くと、肩で跳ね回り、閉じた僕の唇から言葉の欠片たちが零れ落ちていって、それらは本の上でゴムボールのように跳ねかえって、カナさんの呼吸にのって彼女の中に吸い込まれていく。
「そう。好きなんだ」
カナさんは嬉しそうに表情を綻ばせると、「ありがとう」と言って恥じ入ったように目を伏せ、もじもじとした。
それを見て水晶の馬は、僕の肩の上で再び前足をあげていななくと、今度は鐘の音がした。すべてが水晶で作られた鐘があったら、こんな音を出すだろうという、天高く昇るような透明さと高潔さを湛えた音色。
そして水晶の馬は僕の肩からひらりと飛び降りると、カナさんのお腹に向かって突進し、ぶつかる、と思ったが水晶の馬はカナさんのお腹の中に吸い込まれるように消えていった。
僕とカナさんは水晶の馬が出てくるのをしばらく待ったが、待っても出てこないので、その内なんだかおかしくなってしまって、二人一斉に声を上げて笑った。
「今の、なんだったのかしらね」
カナさんはそう言いながら両手をお腹に当てていて、水晶の馬がどこへもいかず、そこにいると信じているように、慈しみと穏やかさに満ちた目で自分のお腹を見つめていた。
僕とカナさんは何事もなかったかのように仕事を終え、二人一緒に店を出ると、駅前の十字路で別れて、家路を辿った。
それからしばらく月日は流れて、僕は大学を卒業し、地方の情報誌を制作する出版社に就職した。作るのは雑誌ばかりなので、会社の中で直角三角形の隙間、を気にすることは減ったけれど、家に帰るといつも隙間を確認するようになった。
カナさんは僕の地元で格安の一軒家を買い取り、ブックカフェを始めた。店には主要な客層である子連れの女性や、年配の女性を対象にした絵本や、手芸の本などの実用書を中心に並べられていたが、その一角の端に、僕が集めた文芸書の棚もあった。
棚に本を押し込みすぎてしまうと、本を抜いたときに直角三角形の隙間は生まれない。余裕をもって、ゆるゆると棚を作るのが肝心だ。
今日も誰かが一冊抜き取ったらしく、直角三角形の隙間ができていた。僕はそこに目を凝らすけれども、あの水晶の馬が再び現れることはない。
「あなた、おかえりなさい」
カナさんが二歳になったばかりの男の子を抱っこしながら、カウンターから出てくる。僕はその男の子の頬にそっと指先で触れつつ、僕を不思議そうに見上げる無垢なその瞳に、あの日の水晶の馬の瞳を見る。
パパ、と男の子は鐘が鳴るような透き通った声で言う。その声に応えるように、僕は自然と表情が緩んで、微笑を浮かべてしまうことを嬉しくも、むずかゆくも感じながら、そっと言う。
「ただいま、優馬」
でも、無性にこうも言いたかったんだ。帰って来たのは僕で、不思議な感じだけれど、「おかえり、優馬」って。
〈了〉