あなたが思い出す言葉は、何に書かれていた?(読書記録17)
■はじめに
サムネイル画像は「針がとぶ」でAI生成したものです。作品の内容とは関りありませんので、あしからず。
今回読書記録をつけるのは、吉田篤弘著、『針がとぶ』です。こちらは以下の話が収録された短編集になります。
針がとぶ
金曜日の本――『クロークルームからの報告』より
月と6月と観覧車
パスパルトゥ
少しだけ海の見えるところ1990ー1995
路地裏の小さな猿
最後から二番目の晩餐
水曜日の帽子――クロークルームからのもうひとつの報告
■繋がり合う物語
ある物語が別の物語のある人物の過去の話だったりするなど、一見繋がっていないように見える物語も、相互に関係しあっているのが、読んでいくうちに分かります。
『針がとぶ』で話題に上る亡くなった伯母さんが、別の話でアルバイトをしていた若かりし頃の姿で出てきます。そして、この伯母さんの癖だった、自分の掌に「忘れてはならないこと」を書き残しておく行為が、若かりし頃、別の人物の癖で、ああ、影響を受けたのだなあ、ということが分かります。
この短編集にはそうした細い繋がりの糸のようなものが張り巡らされていて、読み手はそれを見つけて手繰り寄せ、どこに繋がっているのか探す楽しみがあります。
■印象的だった登場人物
短編集なので、登場人物の紹介をしていると膨大な量になってしまうので、その中から一人だけ。
〇パスパルトゥ 自転車修理人兼鳥博士兼雑貨屋店主。初登場の『パスパルトゥ』では単に雑貨屋の店主として出てきて、特徴的な喋り方でぐいぐいとその短編の主人公を引っ張っていく愉快な人物なのだが、彼は『最後から二番目の晩餐』にも登場して、自転車修理人だったかと思うと鳥博士として現れたり、雑貨屋で店主として振舞ったりと主人公を幻惑していく。
パスパルトゥはかつて百科事典のセールスをしていた。そのエピソードが私は特に好きです。
そう言って過去を懐かしむパスパルトゥに、主人公は雑貨屋の品ぞろえの素晴らしさをさして、「今でも世界を売って歩いているではないか」と指摘します。するとパスパルトゥは涙をぼろぼろとこぼし、何も言わずに帰ってしまいます。
翌日やってきたパスパルトゥに、なぜ泣いたのか訊くと、彼は
そう言って、はぐらかすのである。
■印象的だった表現・文章
主人公に百科事典の内容を記憶しているかと問われてパスパルトゥが答えて。
詩人である主人公が言葉というものについて考えて。
主人公が興味を引かれた、ブンシロウ・ワダ(「パスパルトゥ」の主人公ブンシオ)の画集『CLOAKROOM クロークルーム』の序文。
■聴くことのできない音楽
レコードの針がとぶことを、主人公はそう形容する。
この小説は、針がとんだ、まさにその空白、聴くことのできない音楽を聴く物語だ。
各物語が連綿と続いているかと思えば、それぞれの物語は「針がとんで」いる。「パスパルトゥ」のブンシオが「路地裏の小さな猿」でワダ・ブンシロウとして名前が出て来たり、「針がとぶ」では伯母が日記に書き残した不思議な言葉の主として登場している。
これらは地続きであるかのように見えて、しかし隔たりがある。むしろ、読者が知ることのできる箇所こそが、その人物の隔たり(空白)、つまり「針がとんだ」ところなのではないかと思う。
本来の人物の人生があって、その人生の中のほんの一瞬、「針がとんだ」ところを私たちは味わっているのだ。
物語るという行為は、すべてを語ろうとすることではなく、この「針がとぶ」ところを語る行為ではないかと私は思う。
小説を書くとき、すべてを余さず書くことはできない。
いかなる作品においても取捨選択は行われていることと思う。それは言葉の一つ一つであったり、その登場人物の人生の出来事であったりと様々だろうが、書き手は常に選択を迫られる。
そうしたときどの空白を選んで、「針がとぶ」聴くことのできない音楽を聴かせるのか、それが書き手の個性であり、信念であり、思想であると思う。
今、インターネットであらゆることが調べられる時代、
私たちはみな頭に世界を負っている。
だけど、私たちが語るべき言葉はその中にはない。
いつもそこにはない言葉を探し求めて歩くこと、それを創作と呼ぶのだと、私は思う。
〈了〉
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