菩提樹の下で
胃潰瘍で数日間入院することになった。
胃の痛みなどはほとんどなく、自覚症状としては胃のむかつきくらいのものなのだが、しっかりと潰瘍ができているらしい。人間ドックで発見されて、精密検査を受け、間違いないということで入院という運びになった。
手術の前日に入院したので、手術まで暇を持て余してしまった僕は、入院着に着替えると院内をうろついた。売店や食堂もあるし、散髪なんかもできるようだが、あいにく今の僕には必要ない。
平日だから患者やその付き添いの家族で院内は溢れていて、がやがやと鍋が煮えるような喧騒がフロアには広がっていた。
僕は入院病棟と一般病棟を繋ぐいやに長い渡り廊下を歩いていた。そこの廊下の壁には、入院患者が描いたと思しき絵が何点も飾られていた。プロ顔負けの腕前のものもあれば、ほんの幼い子どもが描いたような絵もあって、なんだかほのぼのとした気持ちになった。
その廊下で、幾人もの人とすれ違ったが、一人の女性とすれ違ったとき、僕は懐かしい香りを嗅いだ気がして、思わず足を止めた。
すれ違ったのは、白いつば広のキャペリンを被った、水色のワンピースを着た女性だった。
僕は振り返って「あ、あの」と声をかけた。だが彼女は振り返らず、関係のない老人が怪訝そうに振り返った。
急いで追い駆け、彼女の前に回り込むと、胃がきりきりと痛んで思わず胸を押さえる。帽子の奥の顔を覗き込むと、見覚えのある顔が、そこにはあった。相手の方でも僕に気づいたのか、「あ」と驚いたように目を丸くすると手で口元を覆った。
「やっぱりそうだ。カズミさん」
「水瀬くん?」
カズミさんは高校時代の同級生で、一年のときに同じクラスだった。その後はクラスが分かれてしまったけれど、一緒に生徒会に所属して働いていた。カズミさんが所属する文芸部にも誘われたことがあったが、メンバーが全員女子だということを聞いて尻込みして、文芸部には入らずじまいだった。
「カズミさんも入院してる……ってわけじゃなさそうだね」
カズミさんはくすくすと笑って、「そうね」と目を細めた。
カズミさんは小柄だ。僕の肩ぐらいまでしかない。でも、最後に会った高校時代よりも、大人っぽくなっていた。あれから十年以上経っている。それも無理からぬことだろうけど。それでも表情の屈託のなさ、無邪気な笑顔は、あの頃のままだ。僕は懐かしい思いが胸の奥からグワーッと込み上げてくるのを感じ、そのノスタルジーに浸っていた。
「水瀬くんはどこか悪いの?」
心配そうにカズミさんは僕の顔を覗き込む。
「いや、大したことない。ちょっとした胃潰瘍だよ」
「あら、甘く見ちゃだめよ。どんな小さな病気だって、命取りになることがあるのだから」
カズミさんが眉をひそめて低い声でそう言うので、「脅かすなあ」と僕は頭を掻いた。カズミさんはすぐに表情を緩ませて、ふふっと笑みをこぼし、「元気でいてよね」と眩しそうに僕を見た。
僕とカズミさんは、別に付き合っていたというわけではなかった。お互い親しい異性の友人、という感じだ。だけど、僕の方にまったく感情がなかったかといえば、そういうわけでもない。親しい女子の友人なんて数えるほどしかいなかったから、気兼ねなく話せる相手というのは貴重だった。でも、当時僕は一人の女性に盲目的に夢中になり、カズミさんに対して抱き始めていた淡い想いに蓋をして、わき目も振らずその女性へと盲進していたのだ。大人になって冷静になってみると、そのとき抱いた淡い想いを大事にすることも、僕の人生の一つの選択肢だったのではないかと、針が心臓をつつくようにちくちくと痛むのだった。
カズミさんの方で僕をどう思っていたかは分からない。バレンタインデーには手紙付きでチョコレートをくれたし、卒業の日には別れの手紙をくれた。でも、その中で僕に対する想いをほのめかすような文言はなかったし、僕は盲進していた恋が破れて傷心の淵にあり、それ以外に心を配る余裕がなかったから、カズミさんの手紙に返事を出さないという不義理を働いてしまった。それだけが、本当に心残りでならなかった。
「カズミさん、手紙のこと――」
僕が言いかけると彼女は首を振って、「いいのよ。もう過ぎたことでしょ」と言った。
「それより、少し付き合ってくれないかしら」
そう言って彼女はトートバッグを僕の目の前に提げて見せる。
僕とカズミさんは連れ立って入院病棟の中庭に広がる庭園に足を運び、中央にある大きな菩提樹の下に僕を座らせ、カズミさんはビニールシートを広げてそこに腰かけ、絵の具やパレットなど水彩画の道具を広げた。
「水瀬くん、モデルになってね」
「僕なんかでいいのかな。入院着だし」
いいのいいの、とカズミさんは絵筆を立てて片目を瞑りながら答える。
「水彩画を始めたんだね」
風がさらさらと僕とカズミさんの間を吹き抜けていく。菩提樹の葉が囁き交わすように揺れ、カズミさんの帽子についた緑のリボンが風にそよぐ。
「絵は、わたしの心を閉じ込めてくれる。静かになれるの。わたしの心の内で叫ぶ醜い声を聞かなくて済む」
僕が身じろぎをすると、「ああ、動かないで。構図が狂っちゃう」と絵筆で頬を掻いて、困ったように眉を曲げた。
「ごめんごめん」、僕は苦笑して元のポーズに戻る。だがこの姿勢だと、カズミさんを斜めに見るので、顔を見づらいのだ。
「ヴァイオリンは? 続けてるの」
カズミさんは高校時代管弦楽部でヴァイオリンを担当し、大学でも続けるつもりだと最後にもらった手紙に書いてあった。いつか聴きに来てほしいということも。残念ながら、僕はその約束を果たすことはできなかったけれど。
「やめたわ」
彼女は顔を上げず、絵筆を滑るように走らせながら、感情を排した静かな声で答える。
「どうして」
彼女は踏み込んでほしくなさそうだった。でも、僕は踏み込まずにはいられなかった。カズミさんがあれだけ大事にしていたものを捨てるなんて、よほどのことだと思ったからだ。だからこそ、僕には踏み込んでほしくないのかもしれない。でも、僕は知りたい。
彼女は平筆の絵筆をバケツの中に放り込み、スケッチブックを置いた。
「あなたとの約束を果たせそうにないから」
「え?」
カズミさんは立ち上がり、歩み寄って菩提樹の下までやってくると、木肌を撫でて、「立派な樹」と呟いて、薄く微笑み僕の隣に腰を下ろした。
「わたしはどれだけ練習しても、舞台には立てなかった。当たり前のことだけど、わたしなんかよりずっと上手い人は山のようにいる。だから、あなたに聴かせるという約束は果たせそうになかった」
でも、僕は。と言いかけると、カズミさんは首を振って、僕の肩に頭をことんともたれさせて、体を預けた。
「いいの。これはわたしの心の問題。あなたが覚えていなかったことは少し悲しいけれど……それは別の問題だから」
カズミさんはねえ、と言って顔を上げた。潤んだ瞳で僕を見上げながら、「少しだけこうしていても……いい?」と訊いた。僕は頷き、彼女の頭に顔を寄せ、お互い寄り掛かって支え合うように座った。彼女の髪からは、甘酸っぱいシャンプーの匂いがした。
それから僕の退院の日まで、カズミさんはやってきて僕を庭に連れ出すと、絵の続きを描き、その間とりとめもない話をした。高校時代までの子どもの頃のこと、高校時代のこと、高校を卒業してからこれまでのこと――、色々な話をした。笑ったり、懐かしんだり、目まぐるしく廻る思い出に僕らはかき回されながら、お互いの人生というものを、コーヒーに入れたミルクを溶かすように、混ぜ合わせていた。ずっと昔から一緒のような気がした。
そして退院の日、僕は普段着に着替えて、カズミさんはいつものワンピースにキャペリン、という姿で、菩提樹の下に立っていた。
「やっと退院ね。おめでとう」
ありがとう、と僕が笑むと、カズミさんは僕を見上げ、でも逆光だったようで、眩しそうに目を細めた。
「これからも、時々会えるかな」
折角会えたのに、またこれでさよなら、なんてのは悲しすぎると思った。お互い時間と距離という隔たりに妨げられて結べなかった関係を、どう結んでどこに辿り着こうというのか、僕には分からない。そんな無責任ではいけないのかもしれない。きっとそうすることで高校時代の過ちを繰り返し、カズミさんを傷つける結果になるのだろう。でも。それでも、僕は彼女と同じ時間を過ごしたい。いつもは無理でも、共有する時間がほしい。それが僕の偽らざる思いだった。
身勝手と断じられるだろうか。そうかもしれない。僕は身勝手だ。それでいいと思っている。聞き分けがいい優等生など、今更演じても仕方がない。
カズミさんは表情を曇らせ、それでもじっと僕の顔を見つめていたが、やがてすうっと涙が一すじ、二すじと頬を流れ落ちていく。
「ごめんなさい。それは……できないの」
僕はぐっと奥歯を噛みしめ、拳を握りしめて、「迷惑、だったかな」と振り絞って言った。
カズミさんは激しくかぶりを振って、「違うの」と僕の手を取った。
「水瀬くんとの時間は、とても楽しかった。懐かしくて、恋しくて。こんな時間がずっと続けばいいのにと思った。でも」
カズミさんが言葉を切ったところで、「あ、水瀬さん!」と看護師の中村さんがやってきて、声をかけた。
「書いていただく書類が一枚あって……こんなところで一人でどうされたんですか」
中村さんは怪訝そうに言った。
「一人……?」
僕は僕の手を確かに握っているカズミさんの顔を見下ろした。彼女は涙で顔をくしゃくしゃにし、しゃくりあげていた。
「一人、ですか。僕一人」
「そうですよ。何言ってるんです。じゃあ、先に病室に行ってますから、来てくださいね」
そう言って中村さんは去って行った。
「どういう、ことなんだ」
カズミさんは泣きはらした目で、困ったように笑いながら、「わたしは、この世のものじゃないの」と静かに言った。
「もう、死んでいる。いわば幽霊。あなたがわたしを見ることができるのは、きっと縁があったからね」
幽霊だなんて、そんな馬鹿な、と僕は引きつった笑みを浮かべた。だって、ここにこうして確かに触れている。僕は手を伸ばし、彼女の頬の涙を拭った。涙の温いぬくもりも、肌のさらさらとした感触も、それらすべてが、本当は存在しないものだって言うのか。
「でも、わたしがこの世にいられるのももうおしまい」
「どうして」
カズミさんは僕の手を引いて自身の頬に押し当てながら、目を瞑って、夢見るように言う。
「わたしはもう満たされた。あなたのおかげで。人生に悔いを残さず、もう逝ける」
いやだ、と僕は駄々っ子のように叫ぶ。「カズミさんがよくても、僕はまだ君を失いたくない!」
カズミさんの涙が、僕の手に零れる。
「こうして出会えたことも、束の間の時間を共有できたことも、奇跡みたいなもの」
だから、とカズミさんは僕の手を放す。
「あなたを放さなくちゃ。あなたはこれからの時間を生きていく人だから」
カズミさんは漂うように浮かんでいく。その体を、足を掴もうとするが、すり抜けてしまって触れることができなかった。カズミさんの体も半透明になり、どんどん薄くなっていく。
「だめだ、行くな!」
僕は叫んで飛びついた。けれど効果はなかった。カズミさんは手の届かないところまで昇ってしまう。
「ありがとう、水瀬くん。最後に出会えたのがあなたで、本当によかった。あなたの幸せを願っています」
そう言うと、カズミさんは空気の中に溶けるように消えていって、それっきり姿を見ることも、声を聴くこともできなかった。
僕はしばらくそこで泣き続けていたが、異変を察知した看護師さんたちがやってきて、錯乱状態にあった僕を病室に運び、主治医の判断でもう一晩入院することに決まった。
夜も窓の外をずっと眺め、放心状態で過ごしていたが、気づくと眠りに落ちていて、夢の中でカズミさんに会えればいいのにと願っていたにも関わらず、僕の夢はそれを見せることを拒否した。
僕は幾分気持ちが落ち着いた、というよりも空っぽになってしまったような状態だったのだが、表面上は元通りだったので、退院し、病院を出て駅へと向かった。
改札を通ってホームに降り、電車を待った。あと二十分ほどあった。無聊を慰めるのに本でも読もうか、と思ってリュックのジッパーを開け、手を差し入れると、入れた覚えのない二つ折りの紙が入っていた。怪訝に思って引っ張り出して開いてみる。
それは、カズミさんが描いた、僕の絵だった。そしていつの間にか僕の隣にはカズミさんが描き添えられており、僕に頭をもたれて寄り掛かっていて、僕ははにかんでいて。カズミさんは幸福そうな笑顔を浮かべていて。
その絵を見た瞬間、僕はとてつもない喪失感――、いや、虚無に胸を襲われて、呼吸の仕方を忘れた。息ができなくなり、胸を掻きむしって、心臓を掻き出したいほどの苦しみに包まれ、僕は膝を突き、そして倒れた。
周囲にいた人々が慌てて駆け寄ってくるのが見える。だが、僕の視界は徐々に暗くなっていき、人々の叫ぶ声は遠くなって、やがて完全な暗闇に、僕は包まれた。
僕はカズミさんと同じところに行くのだろうか、と暗闇の中に残った小さな灯火のような意識の中でそう考えた。だとしたら、彼女は随分寂しいところにいる、と思った。
カズミさんはどこにいるのだろうか、と思った。
暗闇の中で、意識しかない中で変な話だが、僕は目を凝らし、耳をそばだてた。でも周囲には完全な暗黒が広がるばかりで、僕以外の光は見えない。ここにはカズミさんはいない、そう思った。
「あなたの幸せを願っています」
カズミさんの最後のその言葉が意識の中で木霊した。
僕は自分の幸せ、なんてことに思いを馳せたことはなかった。それはきっと僕が綿菓子のような幸せの中に身を置いていたからだ。
幸せになっていいのか、という思いがある。
僕が人生の選択を、高校時代、選択を誤っていなかったとしたら、カズミさんは今も生きていたんじゃないかと思って、その途端カズミさんの愉快そうな声で「思い上がらないでよ」と窘める声が聞こえてきたような気がした。
「あなたは自分を幸せにするので手いっぱいじゃない」
そうも言った気がした。
「いつまでも眠っていては、体に毒よ」
そうだな、と僕は意識の中で頷いて、ゆっくりと目を開けてみる。闇の地平の方から、光の点のようなものが現れたかと思うとその光は奔流となり、あっという間に闇を打ち払って真っ白な光に眩んだ光景が広がる。
光の波が引いた時、目の前に広がっていたのは見慣れた自宅の天井だった。
――僕は生きるよ、カズミさん。君の分も。君の思い出とともに。
首を巡らせて庭を眺め、菩提樹を植えよう、そう思った。
〈了〉