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ロールド・オムレット・ストラータ(第2話)

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■本編

 ここに一枚のコインがある。
 見慣れないコインだって?
 それはいいのさ。重要なのは、私がコインを持っているということ。
 そのコインを、こうして右手に握ろう。
 確かに握っただろう?
 だがこうして手に息を吹きかけると、
 ほらごらん。コインは右手から消え去った。
 なになに、ただの手品だって。
 そうだな。手品ならタネも仕掛けもある。
 現実の手段をもって虚構を現実とする術、それを手品と呼ぶ。
 なら、ただ単に虚構を現実にする術を何と言うか知っているか。
 そう、『魔法』と人は呼ぶ。
 覚えておくといい。手品師の中には、手品師を装った魔法使いがいる。
 彼らは正体が知られればこの世界では生きていけないため、
 手品師に擬態しているのさ。
 擬態ってなんだって。
 そうだな……ミミックオクトパスというタコを知っているか。
 タコはそもそも擬態が得意な生き物なんだが、ミミックオクトパスは、
 その多彩さで群を抜いているんだ。
 毒をもったり、攻撃性の強い生物のふりをすることで、敵をやり過ごす。
 それが擬態さ。
 魔法使いの擬態の巧みさは、ミミックオクトパスにも劣らないがね。
 さあ、ここからが本題だ。
 君の手の平の上にコインをこうして乗せる。
 君は何もしなくていい。ただ、「浮け」とだけ念じるんだ。
 いいぞ。もっと強く考えろ。
 コインが浮いている光景を想像するんだ。
 想像力が現実を凌駕することを思え。
 よし、見てみるといい。コインは君の力で見事に浮いた。手の平から五十センチばかりな。
 これも手品かって?
 じゃあ訊くが、君は手品師なのか。
 違うだろう。これは私の手品でも力でもない。君の力さ。
 いいかい。君は私とは違う。手品師ではない。生まれながらの魔法使いなのだ。
 その力は修練もなしに発揮されるほどに強い。
 もし君が何も知らぬまま育ち、その力を人に知られれば、必ずや悪用されるだろう。
 だから、君は擬態する術を覚えなければならない。
 ミミックオクトパスのように、君の元に悪意をもって近づいてくる奴らから、
 身を守ることができるようにだ。
 だから私についておいで。
 お父さんお母さんに相談する時間?
 申し訳ないが、相談している暇はないんだ。
 それに、君の両親は必ず反対するだろう。
 魔法の存在を信じていないからだ。
 君を導くことができるのは、魔法の力を信じる者だけ。
 さあ、今決断したまえ。君の人生だ。君が選べ。
 私とともに来れば、君の人生に輝かしき扉を開いてやれるだろう。
 君が賢明であることを祈るばかりだよ。

 はっと目が覚めると、柔らかい布張りのソファの上だった。
 あはは、と笑いながら店主のマリンが温かいおしぼりを持ってきてくれる。フクロウはそれを受け取ると眼鏡を外して、むわっとしたおしぼりの熱気を擦りつけるように顔を拭き、特によだれが垂れているかもしれない口周りは念入りに拭いて、テーブルの上に置くと眼鏡をかける。
 彼は町で「フクロウ」と呼ばれていた。昼間はうとうとと眠ってばかりいるし、大きな目が聡そうだからと知恵を象徴するフクロウという名がつけられた。実際は眠っているようで起きているし、頭の冴えも人並なのだが、折角町の人たちが頭を捻ってつけてくれた名前なので、彼も案外気に入っていた。だから、この町にくる以前に何と呼ばれていたのか、フクロウは思い出せないし、町の者は大体そうだ。
 店主のマリンというのも、瞳の色が油絵の具のウルトラマリンという色に似ているからという由来でつけられた名前だ。昔は青は金に匹敵するくらい貴重な品だったのよ、と悪戯っぽく目配せして見せるのが、彼女の常だ。
「ホットコーヒーでいいかしら」
 マリンがカウンターの向こうから声をかけるので、フクロウは右手を上げて了承を示す。
 フクロウは町でただ一人の紙芝居屋で、奇術師だった。
 彼の紙芝居は特殊で、一枚一枚の紙芝居が仕掛け絵本のようになっていて、登場人物だったり、炎や水、建物や岩といった物だったりも動かせるようになっており、彼はその七色の声ですべてを表現してみせるのだった。勇敢なる騎士のときは雄々しい声を、可憐な姫君のときにはうっとりするようなソプラノの声を。水が流れれば目の前で流れているような音を、彼はすべて声で再現するのだった。
 そして紙芝居の中には必ず手品が盛り込まれ、子どもたちはおろか大人たちも見にやってきて、その不思議な現象を楽しむのだ。ステージはいつも満員御礼で、町の公園で最初は興行していたのだが、観客が集まりすぎて収まらないので、町の文化会館を借りて、スクリーンを使って紙芝居を見せていた。
「次の興行はいつだったかしら?」
 コーヒーをフクロウの前に置きながら、マリンはそれとなく訊ねる。「一週間後だ」と人差し指を立てて答えると、「子ども用の駄菓子の用意は」と顔を上げた。
 マリンは喫茶店の隣で駄菓子屋を開いており、フクロウの興行のときはいつも子どもに配るためのお菓子を大量に仕入れて、用意しておくのだった。
「大丈夫よ。明日には届くわ」
 そうか、と頷いてフクロウはコーヒーを啜って、顔をしかめる。「熱かった?」とマリンが訊ねると、フクロウは頷いて、息をふうふうと吹きかけて再びコーヒーを啜った。
「新聞屋は来てないのか」
 町で唯一の新聞を一人で作る若者がいた。町の外の世界で心を病み、この町に流れてきた青年で、年の頃はフクロウと同じくらいだったが、流れてきた当初は猫背がひどくて俯きがちで表情がごっそり抜け落ちたよう、と実年齢よりも十も二十も上に見えたものだが、最近では忙しく町中を走り回り、いきいきと取材をして新聞づくりに励んでいる。
 フクロウの興行も子どもは収容人数関係なく参加可能だが、大人はチケット制にしていて、新聞にチケットをランダムで挟み込んでもらって配っているのだった。そのことで新聞屋の青年と話ができればと思ったのだが、彼は忙しいらしい。定食屋のハルさんのところには通っているようだから、ひょっとしたらそちらに行けば会えるかも、と喉が焼けつくような思いをしながらコーヒーを飲み干して立ち上がる。
「ああ、そういえば、新聞と言えば」
 なんだ、と勘定をカウンターに置きながら顔を上げる。
「トシゾウさんの掘った骨だか石だか、正式に鑑定にかけられることになったそうよ。一昨日の一面に大きく載っていたわ」
 そうか、とフクロウは微笑む。彼は、新聞自体は読まなかった。別に新聞屋の青年の仕事を否定しているわけではなく、現実を表現するのに用いた文字を、彼は長い時間読めないのだった。紙芝居屋、という仕事柄なのか、虚構を表現した文字しか彼の頭と体には馴染まなかった。だが、時事的な問題というのは紙芝居に取り入れた方がいいこともあるので、マリンのところにきてそうした情報は耳で仕入れるようにしていた。
「もしゾウだったとしたら、町中がひっくり返るだろうな」
 そうね、とくすくすとマリンは笑った。
「この国にいないはずの生き物の骨が出た。それはいったいどういうことになるのかしらね」
 フクロウは黒いコートを翻して右手を上げると、いつの間にか手の中に一枚の硬貨を握っていた。それをカウンターの上に置くと、マリンが覗き込み、「あら」と声をもらす。
「ゾウが描かれた硬貨ね。こんなのあるのねえ。どこの国?」
「アフリカの国だ」
 遠いわねえ、とマリンは頬に手を当てて嘆息する。
「おれがゾウの硬貨を出してみせたように、誰か奇術師がゾウを出したのかもな」
「またまた。魔法じゃないんだから、手品は。ゾウがいなくちゃ、でしょ」
 ふん、とフクロウは鼻を鳴らして、「ゾウと旅する奇術師がいたのかもな」と自分でも信じていないことを平然と言う。
「それで、この町に来てゾウは死んだ。なら、残された奇術師はどうしたのかしら」
 フクロウが硬貨の上に手をかざす。それを目で追いながらマリンは言う。
 手を動かすと、そこに置かれていたはずの硬貨は消える。あ、とマリンは驚いて声を上げる。
「奇術師はこの町で魔法使いの少年を見つけた。手品じゃない。本物のだ。そして少年をゾウの代わりに仕込んだ」
「なにそれ。今度の紙芝居の物語?」
 ふっと笑って、「さあな」と愛想なく言うと、フクロウは店を出て行く。
 店を出て国道沿いに南下すると、町で唯一の電車の駅、その駅前広場に着く。駅前広場では、若手のシンガーソングライターたちが日替わりで交代しながら歌っていて、フクロウは木曜日の歌手の歌を聴くのを楽しみにしていた。
 木曜日の歌手はカーディガンと呼ばれていた。その甘く可憐な声と歌い方が九十年代に活躍したバンド、カーディガンズのボーカルによく似ていることから名づけられた。
 カーディガンは二十代の女性で、大学を卒業後、都会の旅行代理店で働いていたが、殺伐として潤いのない日々に疲れ果て、幼い頃に抱いていた歌手になるという目的を追いかけるため、あちこちを彷徨した後、この町に流れてきて居つくようになった。
 髪は栗色のボブカットで、服装はゆったりとしたチュールスカートなどを履いていたが、裾から覗く足首などは細く滑らかだった。そしてギターをかきならし、その甘い歌声で、彼女は失恋の歌を歌う。
「今日も来たの」
 カーディガンは歌っていないとき、低くしゃがれた声をしているが、それが色っぽく思えた。彼女はギターをケースから出しながら、譜面立てを組み立て、楽譜を並べる。
「ああ。おれはあんたのファンだからな」
 フクロウはそう言うと、他の聴衆を邪魔しないように下がって、広場を円形に取り囲んだ植え込みの段差に腰を下ろし、腕を組んで目を閉じる。
 カーディガンはそれを見届けると、軽くギターを鳴らしてチューニングし、音が整ったところで、その低い声でタイトルコールをする。「ロールド・オムレット・ストラータ」
 それはやはり失恋の歌だった。歌うことしかできない、不器用な小鳥と、夜を纏って孤高に飛ぶ梟の恋物語。小鳥は自分の愛を伝えようと、自分にできる、歌うということで伝えようと懸命に歌う。だが梟は、昼間は眠っているばかりで、小鳥の歌は梟の耳に届かない。なら、と小鳥は夜の闇の中、怯えながら飛んで梟の元へと向かう。けれど夜目が効かない小鳥は梟の巣を見落としてしまい、見知らぬ崖の前に辿り着く。その崖は地層が玉子焼きのように重なり合っていて、遥かな時の流れを感じていると、朝日が昇る。その朝日に向かって、小鳥は歌う。夜が来れば朝がくるように、自分は梟への愛を繰り返し歌い続けると。梟にそれが届く、そのいつかの日まで。
 カーディガンが歌い終わってみれば、彼女の周りには人だかりができていた。夕方の時間で帰宅途中の学生やサラリーマンが多いということもあってか、通行人が彼女の歌声に引き寄せられるように次々とやってきては、足を止めるのだった。
「ありがとうございます。この曲は新曲で、いつもは失恋で悲しんでばかりの歌なんですけど、たまには前を向いて生きてみようかな、ということで、前向きな終わり方をする曲にしてみました。メロディも明るめで、わたしの声の高さを活かしてみた感じにしたんですけど」
 カーディガンは少し喋って照れ臭くなったのか、「まあいいや。次、いきます」とギターを鳴らして、次の曲を演奏し始める。
 カーディガンは一時間ほど歌って、「今日はここまで。聴いてくれてありがとう」と立ち上がって頭を下げると、まばらな拍手が上がった。フクロウは離れたところから拍手を送り、植え込みに座ったまま、彼女がギターなどを片付けるのを見ていた。
 聴衆は彼女の帽子の中に千円札などを入れていき、散らばって行った。やがて周囲にいた人だかりがはけるとフクロウは立ち上がり、彼女の元まで近づいて行き、千円札を帽子の中に入れる。
「今日もいい歌だった。特に一曲目の新曲がよかった」
 カーディガンは頬を赤く染めて「そう?」と素っ気なく言うとそっぽを向いた。
「どの辺が」と頬杖を突きながら訊ねる。
「そうだな。メロディも好きだったし、小鳥が朝日を前に気持ちを新たにするところの歌詞がよかったな」
 ふうん、と気のない返事をした後で、呟くように「ありがと」と言ってカーディガンは立ち上がる。
「ああ、待て」
 カーディガンがお金の溜まった帽子を回収しようとするので、フクロウは慌てて止め、何もない右手に、空中からコインを取り出して見せ、帽子の中に入れる。
 カーディガンは怪訝そうにそれを眺めて、「外国の、硬貨?」と首を傾げる。
 そこに入っていたのは、ゾウが描かれた硬貨だった。
 フクロウは微笑して、「古い地層、という言葉が歌詞にあっただろう」と訊く。
「うん、ああ、この町にもあるから、それをモチーフにね」
「その古い地層で発見されたものが、ゾウの骨かもしれないそうだ」
 ああ、と合点したように頷いて、「トシゾウじいさんのこと」と笑みを浮かべた。
「でも、それとこの硬貨と、何の関係が」
 カーディガンが首を捻っていると、「ゾウだ」とフクロウは断言する。
「ゾウの骨が世に出たように、あんたの歌もヒットして世に出るように願って」
 お守りだ、と言ってフクロウは踵を返す。
「トシゾウじいさんの見つけた骨が、ゾウのものじゃなかったら」
 カーディガンはフクロウの背中にそう投げかける。
 フクロウは振り返る。
「それでもおれは聴きにくるさ。何度でも」
 フクロウは駅前広場を後にすると、ハルさんがやっている定食屋を目指した。
 駅前広場からは東に向かった商店街の中に定食屋はあり、そろそろ開店時間になることから、新聞屋も来ているかもしれない、と当たりをつけて向かった。
 商店街の入り口には八百屋があり、この八百屋は夜遅くまで営業していた。フクロウは店のおやじを呼んで、リンゴを四つほど買って店を後にする。商店街もシャッターを下ろしてしまっている店は多く、地元の力が強いこの町ですらこうなのだから、全国的にはもっと状況は逼迫しているのだろうな、とフクロウは思った。
 定食屋は商店街の中ほどにあり、既に暖簾がかかっていて、明かりが灯っていた。引き戸を開けて店の中に入ると、客はまだ誰もいなかった。カウンターの奥にエプロンを身に着けたハルさんが立って鍋の中身をかき混ぜていた。
「あら、フクロウさん。早いですね」
 どうぞ、と促されてフクロウはカウンターのスツールに腰かける。
 土産だ、とビニール袋のリンゴを差し出し、受け取ったハルさんは「いつもありがとうございます」と頭を下げる。「アップルパイにでもしようかしら」
 フクロウはアップルパイに目がなかった。作るならぜひ食べたい、と思ったが、自分の差し入れたものだから意地汚いような気もして、言い出せなかった。
「新聞屋を探してきたんだが、奴はまだ来ていないのか」
「ええ、今日は多分、いらっしゃらないかも」
 フクロウはメニュー表を眺めることもせず、「玉子焼き定食を」と注文する。
「それから梅酒を。浸けておいた梅、そろそろいい頃合だろう」
 ふふ、とハルさんは笑みをこぼして、「さすがですね。いい具合ですよ」と答えると調理台の下から大きな瓶を取り出す。
「新聞屋の奴がこないってのは、なんでだ」
 ハルさんは梅酒の瓶をかき混ぜながら、「お父様の命日だそうですよ」と言う。
「そうか。町を出ているなら、会えないわけだ」
「ええ。多分二、三日は。その間は新聞もお休みだそうですから」
 なるほどな、と頷き、差し出されたグラスを受け取る。「ロックでよろしかったですよね」とハルさんが問うので、「ああ」と短く返事をして梅酒を口に含む。
 甘い。カーディガンの歌声のように。甘くて、心をそっと掴まれて引っ張られる――、その引かれる感触自体が心地よくて、繰り返し足を運んでしまう。この梅酒も、一口飲んで味わっては、また梅の香りと甘さを味わいたくて口に運んでしまう。
 フクロウはグラスを置いて、梅の香りのする初夏の香気の息を吐くと、椅子に凭れて天井を見上げる。
 天井は木を格子状に組んでおり、その合間合間から電球が覗いて店内を照らしている。フクロウはこうして見上げていると、まるで天井に閉じ込められているようだな、と思えてきて不思議だった。顔を下ろすと、怪訝そうなハルさんと目が合う。
「あんたは、魔法を信じるかい」、ごく自然に、フクロウはそう口にしていた。
「魔法ですか。フクロウさんの手品ではなく?」
 ハルさんは菜箸を巧みに操って小鉢の品を盛りつけていく。ハルさんが持っていると箸が魔法のステッキのようだな、とフクロウは思って頬杖を突いてそれを眺めている。
「そうだ。本物の魔法だ。タネも仕掛けもない、虚構を現実にする力」
 うーん、とハルさんは考え込んで、「あったらいいと思いますけど」と言って、その答えにフクロウはどこか落胆したのを感じながら、「そうか」と会話を打ち切ろうと思ったが、ハルさんが言葉を続けた。
「もしあったら、その魔法使いの人は不幸ですね」
 え、と虚を突かれてフクロウは顔を上げ、「不幸?」と訊き返す。
「だって、信じてもらえないですよ、手品だと思われて。きっと手品でも、魔法と同じようなことができるでしょうから」
「信じてもらえなければ、いないのと同じか」
 ええ、と答えながら、ハルさんはフライパンの上の玉子焼きを注視し、ゆっくりと返していく。
「悪くすれば、嘘つきだって責め立てられるかも」
 そうだな、と頷く。
「だから魔法使いは手品師に擬態するんだ」
 擬態、と怪訝そうにハルさんは首を傾げる。
「ミミックオクトパスというタコを知っているか」
 いいえ、とハルさんは首を振って、小魚の甘露煮を小皿に盛り合わせていく。
「擬態を得意とするタコでな、敵から身を隠すためにカサゴやウミヘビに擬態する。擬態可能な生物は十種類以上だとも言われる」
 ハルさんは感心して、そこで思い出したように「タコのいいのも入ってるんですが、つけます?」と訊ねるので、ミミックオクトパスが頭に浮かんでいたフクロウは食べる気がせず、「いや、いい」と首を横に振った。
「魔法使いは敵から身を隠すのに、自分たちに一番近い手品師に擬態するんだ」
 フクロウはにっと笑って、「まあ師匠が言ってたことだから、真偽は定かじゃない」と言うと手を頭の後ろで組んだ。
 玉子焼きがまな板の上で揺れながら、包丁を入れられて切り分けられ、器に盛りつけられ、盆に載せられて他のおかずと一緒にフクロウの前に並ぶ。
 フクロウはまず玉子焼きを一切れ口に運ぶ。
「料理って言うのは魔法みたいなもんだと思うんだ」
 玉子焼きひとつとったって、あの丸い卵からこんな美味いものが出来上がるというのは信じがたいもんだ、とフクロウは梅酒を口に含んで、この酒もそうだ、と頷く。そんなフクロウを微笑ましく見守っていたハルさんは、「そう言っていただけると、料理人冥利に尽きますね」と洗いものをしながら言う。
「でも、タネも仕掛けもありますから、手品の方が近いかも」
「それじゃあ、おれと同じか。同業者ってわけだな」
 ふふふ、とハルさんは口元を押えて笑むと、「そうかもしれませんね」と愉快気に言った。
 居心地のいい店だ、と心底フクロウはそう思う。料理は美味いし、店の中にはゆったりとした時間が流れている。緩やかな小川のような、思わずせせらぎに耳を澄ませてしまいそうな、ゆったりとした時間。ついつい長居をしてしまうのだが、あまり長居をするとその内酒癖のよくないトシゾウじいさんなんかがやってくるから、それまでには立ち去ろうと思うのだが、もう一杯分、もう一杯分と先延ばしにしていると、だいぶ酒を過ごしてしまう。
「ところであんたは、トシゾウじいさんの見つけたものは本当にゾウの骨だと思うかい」
 漬物をぽりぽりと噛み、味噌汁を流し込んで飲むと、器を置いて口を拭いながらそう訊ねる。
 ハルさんは首を傾げて考え込み、「そうだといいですけど。でもゾウ……でしょうかね」と苦笑して答える。
 それが一般的な反応だ。魔法使いなんていないし、この町にゾウなんていなかった。常識的に考えればあり得ないからだ。だが、想像は現実を凌駕し、その虚構こそが真実であることが、この広い世界と長い歴史の上には、往々にしてあることなのだ。
 フクロウはカウンターの上に掌を下にしてかざし、顔を上げてハルさんに向けてにっと笑むと、掌からコインが落ちてカウンターの上を跳ねる。ハルさんが摘まみ上げてみると、それはゾウの描かれた外国の硬貨だった。驚いていると、それだけでは止まらず、二枚、三枚と続けて落ちてきて、どんどんとカウンターの上に硬貨が溢れていく。カウンターから落ちて床で硬貨が跳ねて回っても止まらず、慌ててハルさんが止めに入ったことでようやく止まった。
「何ですか、これ!」
 足元まで散らばった硬貨を眺めて、ハルさんは驚嘆した。落ちた硬貨はすべてゾウの絵の面を上にしていた。まるで無数のゾウが葬られ、山になったようだった。ゾウの屍が骨となり、埋まって地層になった崖。それがあの崖なのかもしれなかった。ゾウがこの国には生息していないという事実は、この際重要ではなかった。
「手品にも見えるし、魔法のようでもある」
 どちらかを決めるのは、とフクロウは硬貨を山から一枚摘まみ上げて、ハルさんの手の中に落とす。
「受け取る人間だ。手品だと信じれば、タネも仕掛けも生まれてくるし、魔法だと信じれば虚構を現実にする術が生まれる」
 ゾウも一緒さ、とフクロウは立ち上がって言う。
「信じればゾウの骨になるし、みんなが馬鹿にすれば、ただの石ころになる」
 唖然とするハルさんに勘定を払って、フクロウは店を後にする。
 日が落ちていた。商店街の中には人気もまばらで、開いている店も少ないことから薄暗かった。歩くと、フクロウの革靴の音がこつこつと高く響いた。颯爽と歩くフクロウは、その音が追いかけてくるようにも、自分に向かって来るようにも感じた。
 子どもは、無邪気にフクロウのことを魔法使いだと思っている。だが、大人は一人も魔法使いだとは信じない。ちょっと器用な手品師といった程度の認識だ。大人の分別はときに真実を曇らせ、その目から覆い隠してしまうことがある。それだけに、子どもの目というのは怖い。擬態を見抜くのも、大人ではなく子どもだ。だから子どもの前ではとりわけ用心しなければならない。
 だが、トシゾウさんの骨は、大人も子どものように無邪気に信じてやればいいと思う。結果として違ったとしても、信じている時間、この町にゾウがいたという仮説は事実になる。それはこの町にとっても、きっと価値あることだろう。
 町にとって、か。
 フクロウは自分がいつからそういうものの考え方をするようになったのか、と排他的で冷徹だったかつての自分を懐かしくも思うのだった。
 擬態する必要がないときは、本当の姿を晒しても支障あるまい。
 フクロウは人気のない暗がりに潜むと、梟に姿を変えて夜空へと舞い上がる。彼はその大きな羽で空気を切り裂き、空を飛ぶ。闇に沈み、街灯が円状の光を地面に灯している道の上を通りかかったとき、彼の耳に歌が聞こえた。カーディガンの声だった。彼女は「ロールド・オムレット・ストラータ」を歌っていた。
 彼女の声はフクロウの胸を締め付けた。孤独な路上で空へと浮かんでは消えていくその歌声は泡沫の夢のようで、愛しくも悲しく響いた。彼女は路上ライブとは違い、その歌をただ自分と、自分が歌を届けたい相手のためにだけ歌っていた。その胸苦しさは、鉄鎖で心臓を締められたように、愛しさに圧され、苦しさに傷つけられるようだった。
 フクロウは降下して、民家のロウバイの樹に留まり、樹上からカーディガンを見下ろした。
 彼女はギターケースを担ぎ、コンビニの袋をぶら下げながら、そっと歌を歌っていた。これから帰り、多分ビニール袋の中の夕飯を食べるのだろう。そして眠り、また木曜日が来れば歌うために出かける。なら、木曜日以外の日は何をしているのだろう。フクロウは初めて人に対してそんな疑問を抱いた。自分が知らないところで何をしていようが、その人間の自由だし、自分がそれを知る必要なんてないと思っていた。だが、カーディガンのことは、どうにも気になってしまうのだった。
 フクロウは上空へ飛び上がり、高く、高く空を舞って行く。そしてカーディガンの姿が見えないところまで飛んで、彼はようやくほっとした。ほっとした、という感情自体が、彼にとっては意外なことだった。
 フクロウは嘴を歪ませて笑みを形作りながら思った。
 小鳥の歌は、梟まで届いていたのだな、と。

〈続く〉


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