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広島県の平和記念公園に行ってきた

 2月16日から18日まで、広島、山口、島根の各県に行ってきた。地域別に、何回かに分けて記事にします。写真中心で文字は少なめです。


 16日は日本航空で羽田空港から広島空港へ。空港から平和記念公園へ直行した。平和記念公園は原爆死没者の慰霊と世界恒久平和を願い、広島市中区の中心部に設けられた都市公園だ。

日曜日だったためか観光客が多かった。

 このあたりは江戸時代から昭和初期にかけ、広島市の中心的な繁華街だったが、昭和20(1945)年8月6日に落とされた一発の原子爆弾によって廃虚と化した。
 その後、広島平和記念都市建設法によって平和記念公園や関連施設が建設され、昭和30(1955)年に完成した。園内には、原爆ドーム、広島平和記念資料館、いくつものモニュメント、被爆したアオギリなどがある。





 原爆ドームは、かつては物産品の展示や販売を行なっていた「広島県産業奨励館」だった。爆心地から160メートルという近い場所にあったが全壊を免れ、わずかではあるが面影を残している。
 平成8(1996)年12月5日、世界遺産に登録された。

大正4(1915)年に建築された洋風の建物だった。
ドームの周辺にはいくつものモニュメントが点在する。背後は元安川と元安橋。





 1945年8月6日午前8時15分、アメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が広島市に原子爆弾「リトルボーイ」を投下した。投下命令を下したのは、当時のアメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンだ。

 「リトルボーイ」により、当時の広島市の人口35万人(推定)のうち、なんの罪もない一般市民約14万人がその年の年末までに亡くなったとされ、生き残っても、その後長く放射能の影響に苦しんだ人々が大勢いる。


 この戦争を〝仕掛けた〟のは、まさに狂人と呼ぶにふさわしいフランクリン・ルーズベルトだ。あのマッカーサーでさえ、開戦にいたる経緯が理不尽であったという旨のことを、ずっと後に吐露していたと言われている。

外国人観光客も多かった。
近くにはこんな露店も。この店の反対側が川になっていて、下の写真の乗船場がある。






 原爆の子の像。高さ9メートル。頂上に立っている少女の像は両手で大きな折鶴を高く掲げている。
 被爆して白血病を発症し、12歳で亡くなった佐々木禎子さんをはじめ、原爆の犠牲になった子供たちのために建立されたものだ。

塔の背後には千羽鶴が収められているブースが並ぶ。
写真では見えないが、塔の内部には鐘が吊り下げられていて、自由に撞くことができる。
折鶴記載台。折鶴を納めて記帳する女性。じつは私の妻。





 原爆死没者慰霊碑。トンネル形の石室内部中央に、国籍を問わず被爆死没者の名前などを記した名簿が収められている。

 この日も、さまざまな国籍と思われる人々が参拝し、頭を垂れていた。
写真は斜めから撮っているが、参拝するときには、石室の真正面に原爆ドームが見える。





 広島平和記念資料館。本館と東館の二棟からなる。たくさんの写真をはじめ、被爆者の遺品や被爆に関係する資料を展示している。

当時の写真や被爆した実物資料などから、悲惨な状況が伝わってくる。

 館内には膨大な量の写真や遺物があり、一時間や二時間では見きれない。どれも無残で悲しいものばかりだ。


資料館の南側では噴水が高く吹き上げていた。



●平和記念公園
平成19(2007)年2月6日に名勝指定(初回)、平成20(2008)年3月28日に追加
●原爆ドーム
史跡指定 平成7(1995)年6月27日
世界遺産登録 平成8(1996)12月5日
●広島平和記念資料館(本館)
重要文化財(建造物)指定 平成18(2006)年7月5日





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