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「成績」の生きづらさをほぐす

身の回りの人が話す、能力の生きづらさ

近々結婚することになる。ありがたいことだ。
結婚式などもあり、彼女にはいろいろプロデューサーをしてもらっている。私はその場その場で頼まれたものをつくることに勤しむ監督兼脚本家なのだが……

それはそれとして、自分の将来以上に自分の身の回りの人も含めた、いまが心配になってしまう、お節介な時期が私にもきてしまったらしい。

身の回りの人たちから話を聞くたびに、資格とか、スキルとか、金融知識とか、将来とか、どうしたってそういう能力に関する話になってしまうからだ。

私はITエンジニアになったが、ここまでの人生含めてただ運がよかっただけで、能力が身についた感覚がまったくない。なかなかいい相談相手になれるはずもなく、「モンハン次回作ってどんなかんじなの?」みたいにフィクションの中に逃げてしまっていた。

だが、なにもしないことができなくなっていて、また本を買ってしまった。そうして、「能力」の生きづらさをほぐす、という本を読んだ。

「能力とは、成績が見せる幻覚でしかないのでは?」
こんな洞察を与えてくれる、とても面白い本だった。

成績が見せる幻覚、能力と不平等

功利主義と同じくらい疑問視されている 能力主義メリトクラシー
その語源となるメリットとは、利点、業績や功績といった意味を持つ。

私たちが学校でよく使った言葉でいけば、成績にとても近い言葉だ。
私は今回あえて、能力よりも現実に則しているとみられる成績という言葉を使っていく。

成績がいいと、将来を期待される。
成績に翼が生え、能力と呼ばれ、人々の会話に躍り出る。
やがて奇妙な説得力を社会にもたらし始める。

成績がいいほうであれば楽観的で結構なことだ。
いっぽう世間では「成績」が悪いとこんな感じだ。

学校の成績が悪かった。
憧れていた学校に入れなかった。
あのとき学校でがんばらなかったから、今の生活が苦しい。

成績の良し悪しはすべて自己責任。そう思われている。
しかし「成績」というのはそんな生殺与奪をもつべき指標なのか。
私は、疑問を持ち始めている。

成績も役職もますます所有権、資本が有利になる時代

能力の生きづらさをほぐす、という本の中においても、医者の子は医者になりやすいという「社会的再生産」が言及されている。

平等についての小さな歴史においても、アメリカにおいて親の所得を見れば大学進学のチャンスがあるかどうかほぼ完全に予測できることが述べられている。

つまり、学歴は、それをつくる成績は、親が買う比率がまちがいなく存在している。

それを知った家も持てているか半々な庶民層の保護者が、無理をして子供のために学歴や成績に金を出す。そんな世の中に進んでいる気がしてならない。

私自身も中学生時代の一年半で個別指導塾で毎月4万円、合計72万円を積んでもらい、高専に入学できるようにしてもらった事実がある。

そのくせ高専では成績不良のままIT系学科を卒業し、ほぼ学歴のポテンシャルだけで会社に入れている。庶民層の中でも、私は単に運が良かっただけなのだ。

就職した私の身の回りでも、教育ローンを組んででも大学に通い、そのローンの支払いに追われている人が多く、こちらは私よりずっと家計簿への影響が大きい。

そうまでして庶民層の我々が得た、超富裕層よりも優れた学歴があったとしても、所有権の有利さは社会の組織のなかでまた表に出てくる。

相続された所有権の中には会社の株も当然含まれているわけで、庶民層は後継者指名されるにしろ高い役職につくにしろ、残念ながら大幅に不利だ。

つまり、大学で成績を得る「機会の平等」あったとしても、成績のもたらすローンによる生活の負担、つまり「結果の不平等」があまりにも当然であることを、ほとんどの人は実感しているはずなのだ。

それでもなお、なぜ「成績」がなくならないのか?

「能力」の生きづらさをほぐす、を読みながら私が解釈したの成績がなくならない理由は、このような調子だった。

  1. 学校という通過儀礼(機会の平等)が、不幸にも成績の不平等(結果の不平等)をあいまいにしてしまっている。

  2. 所有権や序列などの関係性の問題が、能力の問題と誤認され、神聖視されている。

  3. メンタル護身術「本当の私」が、能力や成績や資本の神聖視のループに入らせ、アニメやマンガのお楽しみ要素に昇華するほどに普及している。

  4. 適性検査、カウンセリング、ストレスチェックなど心理的な分析や診断が、組織での深掘りより個人の深掘りのほうが簡単に結果がわかり、能力の神聖視と結びついて更なる神聖視のループをつくってしまっている。

さらに要約すれば、
不平等を固定化するループを生んでいる以下2点の影響だ。

  1. 関係性の問題が見えづらいせいで「能力」を神聖視する構造がある。

  2. 学校や適性検査、心理診断が資本の差でつくられる「結果の不平等」をわかりづらくしている。

大多数を巻き込んだ「成績」の生きづらさ

この不平等が続ければ、所有権主義、すなわち資本主義の格差問題の亜種が生まれていくだろう。現に今も、これらは現実で起きていて、さらに悪化する可能性が高い。

  • 大学で研究をしたいのに、大学に入学するために法外な学費とテスト成績の確保が必要になる。

  • 大学は研究と教育の機関だったはずだったのに、研究と教育の中身は無視され、4年間通える半民営の就職斡旋機関《ハローワーク》と化して空洞化していく。

  • 企業や学校や行政が、学歴の代わりにあいまいな能力を言い訳にし、不平等に採用や昇格降格をする(ちなみに要求する側にその能力の定義が要求されていない、というか要求する人がまだあまりいないらしい)。

  • 関係性の問題が無視されて病状が悪化し、メンタルヘルスケアの個人の負担が、不必要に増大する。

どれも無駄なお金だし、それに巻き込まれる人々も悲惨でしかない。
この大多数を巻き込んだ「成績」の生きづらさをほぐすためには、能力よりも関係性に目を向けた、別のアプローチがこれからは必要なのだと思う。

だが、関係性とはあいまいなものだし、計測できるようにも思えない。人類の進歩に期待したいが、それよりもじっと身の回りの人の様子を注意深く観察するところからはじめたほうが早そうだ。

ふたりから始められる「生きづらさをほぐす」

私自身にできていることは大して多くはない。
ITシステムをつくったり、それらを動かしたり、仕事や現場を教えたり説明したりが日常業務なわけで、それが関係性へのアプローチとは思えない。これらITはこの半世紀、多くの人が続けてきた変わり映えのしない仕事だからだ。

私が関係性にアプローチできているとしたら、身の回りにいるみんなからIT仕事や、他愛のない日常を通して話を聞くことぐらいだろう。こちらも変わり映えはない。だが、いつだって誰だって、ふたりで会話をするときに注意深くするだけで始められる。

話を聞くことを通して、間違って歪んでしまった関係性を見つけ、それをどうするかみんなと一緒に考えることができるようになったらいいな、と思いながら最近はこの本を読んでいる。

まだ答えは見つかっていない。
見つけることも難しいのかもしれない。

ただ、私はただ運が良かっただけだ。
その運すべてなげうってでも、みんなと楽しく、将来の心配も少なく、安心してお話しできる誰かになりたいとは思う。


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