映画「オツペンハイマー」について
一昨日鑑賞。先ずはこの映画は「新しさ故の不思議さ」に満ちたものである。ストーリーの目新しさはない。多くが旧知の事実だ。オツペンハイマーと恋人ジーン・タㇳロックについてのエピソードは原作にあるのか(原作未読の為詳しくはわからない)ノーランの脚本、演出によるものがわからないが、精神的に弱い(というか病的な)ジーンの内面に引きずり込まれていくオツペンハイマーの描写(妻の眼の前でジーンと裸で絡み合うオッペンハイマーの幻想)がそれを表している。オッペンハイマーは基本女性に優しい。優しいというより「弱い」といつた方が正しいかも。妻のキテイからは尻に敷かれているし、根性無しと攻撃されている。そう、彼は情けない弱い男として描かれている。(若い頃教授に苛められて林檎に毒を盛るシーンとか)しかし、変なところ(特に仕事絡みの対男性に対しては矢鱈マウントしたがる)に意地を張る。「弱い男が権力を持ってしまった時の恐ろしさ」(森達也)である。ここからはロス・アラモスの描写ートリニティ実験であり遂に広島・長崎への原爆投下であるがーこのあたりは周知の事実だし、ノーランの推測や歴史的な新事実があるわけでもない。しかし、このあたりの「、歴史物」としてのノーランの表現は非常に新しい。バーベンハイマーの時にも、試写の際にも言われた事だが「原爆の直接的描写が無い」ことであるが、多くがノーランがビビって描かなかったという指摘があるがそれは違うだろう。表現で言えばこの映画の多くは主観(一人称)として描かれるシーンが多い。大半がオツペンハイマーであり、またストロースだったりする。つまり(わざとだと思うが)ノーランは一人称で語られた人物との「観客が共犯関係」になるよう作られている。特に日本では被害者からの視点で語られる事が多い。それはそうだろう。逸れも一つの表現手段であることは違いない。ある意味それに逃げれば表現としては楽だ。しかしノーランはそうはしなかった。その意味ではこの映画の重要性であり、新しさである。これはつまり加害者として描かれた初めての反戦映画である。