「エコーチェンバー現象」ってご存知ですか?(素敵なリーダーになりたい編_v4-96)
本を読んでいて、ふと自分の思考・行動を改めるべきか、と気づいたと共に、改めるのは、しかし、簡単ではないな、と思うことがあった。
「多様性の科学」(マシュー・サイド著、ディスカヴァー・トゥエンティワン)という本。2021年に日本では出版されているので2年程前ですね。
「エコーチェンバー現象」(閉ざされたエコーが響く部屋・反響室)という章があり、そこで自分なりの気づきがあった。
「エコーチェンバー現象」とは、同じ意見・思想を持つ者同士のみで密にコミュニケーションを繰り返すことで、その仲間内では同じ意見が飛び交うため、ますますその特定の意見が信念として強化され、それだけが、自分達だけが正しいと思い込み、他の意見を排除する現象。
似たような意見のみがエコーのようにあっちこっちから反響するから、それらばかりを受け取るから、それだけが正解と思うのだ。
当然に外部からの反対意見は入りづらくなるが、全く入って来ないという訳ではない。ただ、反対意見を聞けば聞くほど自分達の考え・主義・主張が正しいとの信念を強めてしまう、らしい。
反対意見はフェイクニュース。自分達を陥らせようとする言葉の暴力だとあしらい信じない。聞こえるが信じない、とのこと。
どこかの国やなんらかの団体も同じだが、そんな組織に属さない一般の人々も同じ。インターネットの発達で色んな意見に瞬時に接することができるはず、にもかかわらず、同じ意見のみにアクセスし、グループ化する。
まるで、狩猟採集時代の、他の部族と接すること無く内々だけで生活する、そんな時代に逆戻りしたかのようだ、とのこと。情報が集団間よりも集団内で共有される。フォローして、フォローされて。ちょっと違う意見があると、無記名で批判。意見を批判するどころか、ヒトを批判する。人身攻撃、誹謗中傷。自分・自分達だけが正しい。
で、ある白人至上主義者の若者の話が登場する。
両親も白人至上主義。そして、小さい頃にそのリーダー的存在から教育されたこともあり、強くそういう主義へと育って行く。
周りには極右しかいない。そんな人達の集まりの集会に行き、サイトを見ては書き込む。気づくと白人至上主義者内での若きスター・希望の星となる。大学前には多数の聴衆の前で演壇にもあがるまでの存在に。
ある時、彼の通う大学で、彼のその発言・行動がバレ、大騒ぎに。結果、心を改めるどころか、ほれ見たことか、極右を批判しながら、抗議デモで大学を封鎖したり、彼のクルマを破壊したり、自分の主張を暴力で封じ込めようとしているじゃないか、どっちが問題なんだ、と。
ますます強い信念を持って白人至上主義へ傾倒。「正しいのは我々だ!」「反対意見」・「違う意見」は正しくない。フェイク。我々を陥れようとする暴力だ。
現実が歪んでしまう。ますます。どんどん。「エコーチェンバー現象」。
ただ、大学で、彼が蔑んでいた劣等のレッテルを貼っていたユダヤ人の学生と知り合う。彼との会話を通じ、紆余曲折はあるが、白人至上主義が科学的ではなく、「逆」を支持する科学的文献などに触れていく。一歩一歩だが、変わっていく。
あれ、僕は何か間違っていたかも。。。そして、極右の、極度の白人至上主義者が、多様性に触れて、変わっていく。自分の過去の言動を過ちと定義し直していく。もちろん極右思想の父・母との関係にはかなりのヒビが入るが。
「エコーチェンバー現象」から脱却。それは多様性のお陰。
話はちょっと変わるのだが、自分のビジョンを進めて行くと壁にぶつかる。日々ぶつかる。諦めるのか、継続するのか。
そのビジョンが本当に自分が全力で進めたいことなのか、天からのテストだ。
そこまでのことでなければ、苦難があればさっさと止める。諦める。でも、壁が立ちはだかっても、それでも自分はやり続けたい、と自然に思えるなら、それは本当にやりたいことなのだ。
それを確かめるために、テストが繰り返し課せられるのだ。壁が何度も何度も立ちはだかるのだ。それがやりたいことをやり続ける人生というもの、なのだから。
で、壁や苦難、問題や課題、という言葉を使うならば、それを乗り越えたらいいさ、と容易に思える。が、「反対意見」「違う意見」「多様性」と言う言葉を使われると、悩んでしまう。
自分のビジョン・目指すことは本当に進めていいのだろうか。「反対意見」の方が正しいのかも、もっと「多様」に考えたが良いのかも、と思ってしまう。
「壁・苦難・問題とか、山有り谷有り」という言葉だと、無機質で人格が無いから、乗り越えればいいさ、となるが、「反対意見・多様な意見・異なる主張」などと背景にひとの存在を認め、人格を持たせると、困っちゃう。本当に突き進んで良いのかな、と思ってしまう。。。
稲盛和夫さんの本を読むと、このような葛藤の際は、善なる動機か?を真剣に繰り返し確信されるまで問うことの大切さが強く謳われる。善なる動機か? 私心じゃないか? 私利私欲じゃないか? 利他になっているか?
これは理解できる。だけれども、この善なる動機か、利他か、を自分が判断するのも難しい。そして、間違えることもある。。。
ということで、悩んでしまった。と言っても、「白人至上主義」のような極端ではないから、やり続けるのだろうけど、いずれにせよ、単純に考えていた自分の過去の思考に一つの変化を与えてもらった。ま、成長したのかな。。。行動が何も変わらないなら、成長でもないのかな。。。
いずれにせよ、結果は間違うかもしれないけど、それほどの利他ではないかもしれないけど、自分だけ、同じ主張の仲間だけ、ではなく、多様な意見、異論・反論・批判を受けて判断するほうが、過程としては良いのかな、と思いました。なるべく人格を持たせた言葉を使いながら、エコーチェンバー現象に陥らず。
「素敵なリーダー」:
利他かどうか、善なる動機かどうかは、その会社の事業が成功するか(成功の定義は別にして)、持続できる業績、社員に充分な給与を提供できる業績になっていれば、つまりそれは、原則的には利他なのでしょう。利他じゃないと稼げないですもの。
でも、目指すことが利他でも、方法が利他にならないことはありえます。例えば、極論だけど、社員を暴力で、パワハラ・セクハラで、寝る時間も与えず、なんてこと。これは利他ではない。
利他なビジョン、そして、利他な方法だ、と納得できたら、壁が来ても、反対意見が来ても、批判が来ても、突き進めるのでしょうね。その利他具合が間違っていたと気づけば、日々修正して。これは一定の立派なリーダーのように思います。
こんな素敵なリーダーになりたいですね。