あの授業は「授業」というよりは…
9月、授業を観に来てくださった先生から①
観に来てくださった先生方からいただいたご感想を掲載させていただきます。一部、省略や見出しや注釈追加などはありますが、できるだけ原文通りにしてあります。今回は、その第1回です。
今回は授業の見学をさせていただきありがとうございました。
また途中の退室については失礼しました。
「学びの場」
藤牧先生の授業、大変興味深く見学させていただきました。
そもそも私の中では、あの授業はいわゆる「授業」というよりは「学びの場」という言い方が正しいのかなと思いました。
生徒がそれぞれに自分の考え方で、問題の解答に向き合っていました。
「世界史」か化学か
生徒の様子を中心に見ていましたが、一番気になったのは世界史のプリントでした。おそらく次の時間あたりにテストがあり、短期記憶で覚える作業に時間を割きたい気持ちと、化学の授業との優先のつけ方がどうなるか。
最低限のやることができたら、やりたいことをやっていいよ、というスタンスを取られていることはイメージしていましたが、そのような先生の前で、いざ生徒がどのような行動を示すのかが一番気になりました(実際、この時間の後に、世界史の再テストがあるということなので「世界史をやっててもいいよ」と声を掛けていました)。
結果としては、化学の問題を解くのに集中している時間がほとんどでした。
生徒の心理がどのようなものかを想像しながら見ていましたが、私の経験では、あのような場面では、意識が世界史に全集中していて、先生や周りの様子を気にしながらこそこそ行動する生徒しかいないのですが、あのときの授業を受けている生徒は、目に見てはいる範囲の生徒は、皆気持ちは「化学」の方に向いていました。
当たるかもしれない、という緊張感?
周りの生徒がやっているから、流されて…?
お客さんが多数いて見られているから?
たとえ、見たとしても、堂々と見ていたのではないか、という気がします。
この気持ちの部分がどのように醸成されたのか、考えても答えは出ず、深い思考になりました。
ぶれない「規律」=自律心
ただ少なくとも、この生徒たちは、自分の行動に対して、ぶれない規律を作れていたと思います。
問題が解けるまでは見ない、とか、解けて時間があまったら見るけど、途中では見ない、とか…。
このような「自分の行動に規律を作れるか=自律心」どうか、というのが最近の私の人間教育のテーマで、生徒の心に届く言葉を考えながらアプローチしていました。
私のいう所の「自律心」が学校という場で六か年でどのように育成されてきたのか、
また藤牧先生がどのように、あのような行動につながる発信のしかたを生徒にして来られたのか、
をあとで聞いてみたいな、と思いました。
考え方の多様性
そちらに意識が行き、肝心の化学基礎の内容には、あまり深く思考は進まなかった(すみません)のですが、おもしろかったのは文系の生徒の計算の方法は、多様なんだなと思いました。
割り算の説明をしている生徒が、〇÷〇、みたいな説明をしている生徒、分数的にとらえている生徒がいて、それぞれの多様な考え方(計算方法)がいて、それをグループの生徒が自分と違う思考回路のものも聴いて理解しようとしているのが印象的でした。
他者理解、大袈裟ですが異文化理解につながる要素だなと思ってみていました。
授業後、振り返りの時間が取れなかったのは残念でした。
少し長くなりましたが、感想として送らせていただきます。
ありがとうございました。
こちらこそ、観に来てくださって、またこのような感想もいただき、ほんとうにありがとうございました。