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ガラスと欲望


 ガラスは堅くもろく透明な物質である。そんなガラスの容れ物に、私たちはいろいろなものを入れる。そして見る。

 あらゆるものはガラスの容れ物に入れることができることを見るには、百貨店や博物館へ行けばよい。靴、食器、本、食品、衣服、文房具、工具、家具、回が、宝石、生物の死骸などなど、その種類は数えることはできない。
 どのようなものでも、ガラスの容れ物に入れたなら、その瞬間からそれらは触ることができず、嗅ぐこともできない。わたしたちはツルツルとしたガラスの表面に食い込むように視線を集中させるのみとなる。
 そうやって触覚が失われたことを、ガラスは温度と堅さで強調する。そしてガラスはこのときはっきりと厚みをもって存在するにもかかわらず、視覚的には無いものとして見なされ、つかみどころがない。 そうやって人と物との間にあるガラスの厚み分の空間は、保護されている孤独として横たわる。見るものも、見られるものも、この孤独を共有しなければならないのだ。そうやって欲望のみが肥大してゆく。

 この堅くてもろいガラスの容れ物を開けるには、とりあえず二通りの方法がある。ひとつはお金という鍵を使うこと。この鍵は、ガラスの容れ物の堅さの鍵穴にはまる。もう一つは、破壊という鍵を使うこと。この鍵はもろさの鍵穴にはまる。
 消費か略奪か、あるいは開けることをあきらめて孤独な視覚に浸りこむか。近代以降、量産されたガラスによってあらわにされた人の欲望はそんな形でしか表現できないのだろうか。
 今の芸術の仕事は、ガラスの入れ物を中から開ける鍵をつくることかもしれない。 (現代美術作家)

©松井智惠

2022年4月24日改訂 1994年10月7日 讀賣新聞夕刊『潮音風声』掲載

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