創造の倫理、不信への信仰
「アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である」
“Nach Auschwitz ein Gedicht zu schreiben, ist barbarisch”
このテオドール・アドルノの有名なアフォリズムに、私はずっと囚われています。この言葉の意味することと、その上で我々がとるべき態度について。アドルノは、ユダヤ人という彼の視点から生まれたファシズムに対する批判的な執筆とは裏腹に、ナチスに加担するような態度・活動をしていたことから、同時代の思想家達からは、彼の思想自体、信用しがたいと見なされていたようですが、ここではそういう背景を問題としません。アドルノが何を意図していたかに関わらずこの言葉は、その表面的な意味を超えて、すべての創造的行為を、根底から転覆する力を持っています。なぜならここで言われていることは、現代においてもなお、詩を生み出すこと(敷衍すれば創造と呼ばれる行為すべて)は野蛮だ、ということであり、それは即ち、創造的・文化的な行為は、尽く破壊的・暴力的な行為であるということになるからです。これは比喩でも誇張でも何でもなく、詩も、小説も、映画も、音楽も、文化的な行為は尽く、人の何かを奪ってしまうこと(即ち野蛮)に繋がってしまうという、簡潔で残酷な事実です。この警句によって白日の下に晒される私の姿は、正視に堪えない、ひどく醜いものでした。私が何かを作るとき、その作ったものが誰かの何かを奪う。その何かが、人としての尊厳や誇りだった場合、その人はきっと私、あるいは私の隣人や家族、ある種の「類似のヒト」に対して、宣戦布告をすることになる。これは明らかに、野蛮そのものでした。その事実について、思考停止はもとより、「知らない」で済ませようとしたり、「忘れた」と責任逃れをしようとすることは、戦争を助長するなどという生ぬるい表現では足りない、罪なき人たちを銃殺するよりも、もっとずっと残酷なことではないか、と思うのです。
このようなことは、改まって問うべきではないのかもしれません。人類が直面したまま硬直してしまう、このような問いは。それでも私は、あらゆる諦念を拒否してでも、これに向き合う必要があると考えてきました。どうすれば、野蛮に至らずにこの生涯を過ごせるのか。これが、大戦以降の世界における、最も重要な命題のひとつであることは疑いようもありませんでした。
かつて私は、この問いにひとつの解決策を与え、実践していました。それは、すべてを自己完結させようとすること。誰にも創造を見せてはならないという、その自己陶酔的な自戒に基づく、創造的行為の拒絶と放棄。しかし、これは当然ながら、不可能なことでした。よく考えてみれば、私の一挙手一投足は、尽く創造的行為なのでした。私が息をすること、パンを食べること、音楽を聴くこと、本を読むこと、人と会うこと。どれをとってもどこかで、なんらかの「他者(即ち世界)」との関わりを持つ、創造的なものである運命にある。ここから私は、生きること自体が芸術なのではないかという着想を持つようになりました。同時に、完全に独立し閉鎖した系として存在したことがない故に、人は常に人間として存在している、という発見もありました。それでも、この「創造の野蛮」ということに対しては、なんら解決策を提示できず、これを留保する姿勢を続ける他ありませんでした。
書いていて気が変わったので、中途半端なところですが、ここで結論を示します。私が言いたいのは、所謂「自信」を持つ必要はないのではないかというのが私の考えだと思われる、ということです。飛躍がありますね。
「創造の野蛮」という問いに直面した際に、人がとり得る態度を列挙してみると、
・禁止:「創造」は野蛮に至る畏れがある。故に「創造」をしてはならない。
・諦念:すべての行為は「創造」であり、「創造」は野蛮である。故に野蛮に至ることは、やむを得ない。
・止揚1:「創造」が野蛮ではなくなるような表現方法を確立しなくてはならない。
・止揚2:「創造」は認識を以て完成するので、よりよい認識のための教育を実践する必要がある。
・止揚3:「創造」が野蛮になり得ないようなプラットフォームを作ることが望ましい。
ーーというようなことが考えられますが、これらの「態度」には共通点があります。それは、いずれも自分自身が何か行動に移すことを前提としている、という点です。ひとつ目を例にすると、推奨されないので「創造」はしない、という行動を主体に要求します。これは極めてビジネス的な考え方だと思います。しかし、本当にこれでいいのでしょうか。「創造の野蛮」の前では、弁証法さえも詭弁に見えてきます。
上述したように、「人は常に人間として存在している」ので、人について考える際、人を独立したひとりの存在として抽出して対象とするのは、あまり賢明とは言えません。人は必ず創造的であり、常に「他者」と関与している。ですから、人は、必ず自己と他者のあいだにある、「隙間」を含む「人間」として存在する。この着想を「創造」に対して応用するとどうでしょう。「創造」を独立したひとつのものとして抽出して考えることはできない、となります。私の「創造」は私に帰属するものの、私以外のすべてと完全に分離している訳ではない。「創造の文脈」と呼ぶべきものが「創造」にはあって、ここに「創造の野蛮」に対する態度のヒントがあるように思われます。
ものごとを考えるとき、そのものごとには無数の隣接物ないしは付属物があるにも関わらず、それを単独で取り出して考えようとするのは、少なからぬ無理があるように思います。食物連鎖を度外視していては、絶滅危惧種は救えない。私の創造のひとつひとつ、私と私ではないもののひとつひとつが、完全にばらばらに存在している訳ではないということ。そして、私の創造は確かに、私に帰属していること。ところで、「創造の野蛮」について、単独で考えることができないのであれば、私はずっとなにを考えているのでしょう。しかし、この問いは私に対して問われているようです。不思議ですね。
自分を例にして考えてみると、私は何か創造的なことをするとき、あるいは別の言い方をするならば、自分以外の誰かになんらかの形で影響してしまうとき、自分自身の中で何か確信めいたものを持ったことがないような気がします。つまり私が何かを創造するとき、私はどこかで以下のような懸念を抱えています。これは見当違いかもしれない。これは誰かを傷付けてしまうかもしれない。これは人を押し退けたり、不快にしたりするかもしれない。延いては、人を殺してしまったり、戦争が始まってしまうかもしれない。以上のような懸念が常に、あります。これは、私個人の自意識だけから生じるような独善的なものでは恐らくなく、「創造の倫理」とでも呼ぶべきもので、「創造の野蛮」以降には、どうしても生じてしまう種類の懸念なんだと思います。誰かがはじめた戦争について、はじめた本人がどう思って行動した結果なのかなんてことは、戦争自体が終わらない限り、誰も聞いてはくれません。その懸念を、奔放に、野放しにしていいと、心から思うことができたら、その人は暫くは幸福に違いないでしょうが、いずれは破綻することでしょう。なぜならそれは本質的に、この種の懸念をそもそも認知していないのとなにも変わらないからです。
ここで問いの立脚点に戻ります。「創造の野蛮」に対する態度を決定する、というテーマは、実は正確ではありません。正しくは、「創造の野蛮」に対して確信的な態度を持つことは、自意識を含む倫理的な懸念を捨て去ることになる故に、ある種の独善に陥り、その結果として野蛮に至ってしまう、となります。本末が転倒してしまいました。自意識を含む倫理的な懸念を捨て去る。これは、独善に陥ること、自己を権威化すること、そして、野蛮を目指すことに他なりません。野蛮を脱しようとすることは、野蛮そのものになることなのです。私は自分が誠実だとは思いませんが、野蛮そのものになってまで、「創造の野蛮」を脱しようとすることを、誠実なことだとは、どうしても思えませんでした。
これらの話は断続的に飛躍していて、まとまりに欠いているような気がするので、そろそろ終わりにしてもいいかなと思います。途中で示した結論ですが、あれは「創造の野蛮」に対応するものではありません。この創造と野蛮の表裏性は、永遠と呼ぶにふさわしい、循環型の問いなので、私はこれからもずっと、このことについて考え続けるつもりです。上述した結論のうち、『「自信」を持つ必要がない』というのは、達成を達成とすることはできない、あるいは、私を私で完結させようとしてはならない、というようなことを意味していて、後半の『というのが私の考えだと思われる』というのは、そう思うけれども違うかもしれない、ということを意味しています。よって結論は、ここであえて断言するとすれば、私は私に対して、なんらかの確信的な信頼をもつ必要がない、ということになります。私の考えていることは、「他者」によって考えさせられていることであり、また、考えていないこととの相互作用の結果でもあるので、もはやなにかを表明することに意味もないように思われます。でも、やはりそうではないという線引きが必要な時もあって、その不均衡によって、不安なときも、苦しいときも、会話ができないときも、あって然るべきなのではないか、と思うのです。
私は、これはこうであるとか、それはそうであると断定することで、シンプルに生きたいとはどうしても思えない。生きることは、残酷と悲哀から生じる嫌悪と絶望においてもなお、そこから逃れようとすることでなければ、ビジネスライクに切り捨てようとすることでもない。私は何より、考えることをやめたくないのです。故に、私は私が自信を持とうとするのを、ありとあらゆる手を使って阻止したい。私は私を権威化したくないし、何らかの確信的なものを持って、それを人に押し付けたくない。言うなればこれは「不信への信仰」なのです。これを希望と捉えることもできるし、絶望と捉えることもできるけれども、ここには無数の他者、いわば無数の問いの契機があって、それを時折見つけて、見つめて、問いを生み出すという行為こそが生きることなのではないかな、と思います。そして恐らくこれが、私がずっと抱きしめてきたし、これからも大切にしたい、小さくて、それほど重みもないけれども、私という場で芽吹いている、永遠なんだろう、と。そう思います。
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