抱擁/「質量の交換」
抱擁、おばあちゃんには三年前ぐらいからするようにしている。
父や母とはまだできていない。もう二人とも60近い。
そろそろ恥ずかしがらずに抱擁できるだろうか。
僕ももう28歳。気づけば四半世紀も生きている。
きっといろんな人に抱きしめられたし、いろんな人を抱きしめた。
これからは抱きしめることの方が多くなると思う。
けれどいつまで経っても抱きしめられたいと思っている。
大人になると心は強くなっていくかもしれないけれど、体はだんだん弱ってくる。
きっと体が弱ってくると心まで弱ってくる。
そうなった時に私のことを誰が抱きしめてくれるだろうか。
孫はいるのだろうか、子供はいるのだろうか、
もしかしたら、いないかもしれない。
そうなった時に、誰からも抱きしめられなかったとしても、今にも倒れてしまいそうな人が目の前にいたら、抱きしめてあげたいと思っている。
けれど今は父や母、祖母、彼女、友達、身近な人が何人もいる。
知らない人のことはまだ抱きしめられないけれど、近くにいる人が大変な思いをしていたら、抱きしめてあげられるよういたい。
確か昔、 ka na taのデザイナーの加藤さんが、季刊誌「白湯」2021年春 カネコアヤノとの対談で、「質量の交換」についてお話ししていた時があった。
私はこの「質量の交換」という言葉がずっと自分の中で残っている。
これは迷信かもしれないけれど、私たちが冷たくなって動かなくなった時に「21g」軽くなるという結果があったとかいう話を聞いたことがある。
もしこれが本当なら、人が亡くなった時「21g」なくなる前の人と質量の交換をすることができない。当たり前だけれど。
私は生きているうちに、身近な人たちと「質量の交換」をしておきたいと思っている。抱擁による「質量の交換」はとても抽象的なものだけれど、その人の体温とか、お肉の着き具合とか、呼吸とか、いろんなことが知れる。
実際に「質量の交換」なんてできないけれど、抱擁は私がここに生きていることを証明できるし、あなたがここに生きていることも証明できる。きっとそうされた方は、意外と覚えているんだと思うし、私も覚えている。
もしそれが抱擁でなくても、握手でも、背中をかくでもいいから、触れて、触ってみたら何か、気づけなかったことに気づけるのかも知れないよ。
また今度。