【小説】あおいし、赤い。
校舎の隅に追いやられる、埃っぽい美術室。
白目を剥いた複数の頭部が、一人の生徒に
目を奪われていた。
私は、どうしてここに辿り着いたのだろう。
締め切った窓の外からは、ざわめき立つ
蝉の声が聞こえてくる。
教室の扉を開けた手には汗が滲んでいた。
入り口に立ちすくむ私とは対照的に
一人の女子生徒が教室の真ん中で
熱心に何かを描いていた。
「ここにはいたくない。」そう思いながらも
私の足は吸い込まれるように美術室の中に
踏み入れていた。
その女子生徒を目掛けて
一歩、また一歩と近づく度に
軋む音を響かせる木製の床。
足音に気づいたその生徒が顔を上げた。
その瞬間、頭部達も私に一斉に注目した。
白い目がこちらを見つめている。
鼓動の音と、窓の外からの蝉の声が
私の耳には鳴り響いていた。
暑さだろうか、汗が首に滴った。
はっと我に帰り、彼女と向き合うと
彼女の鼻からは、一本の赤い筋が流れていた。
「あ、血。」
夏の暑さであろうか、
目の前の美女は
鼻血を垂らしていた。
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夏休み前には全校集会が開かれる。
クーラーのない広い体育館。
全開の窓と扇風機ではこの暑さを
どうにかすることはできない。
「あと、何分あんの?」愚痴をこぼす者もいた。
滴る汗を首に感じながら、ただ時が過ぎるのを待っていた。
「2年B組。末永ともえ。」
1人の生徒の名前が頭の中に響いた。
集会は気づけば表彰式に移っていた。
末永ともえ。彼女はあの時美術室で出会った生徒だ。彼女の描いた絵が美術のコンクールで優秀賞に選出されたのだった。
あの時、鼻血を垂らしながらも
描いていた作品だろうか。
結局、あの時はそのまま彼女を
保健室に連れて行ったため、
どんな絵を描いているのかは知らなかった。
夏の暑さで誰もが、早く終わることを
望んでいた全校集会。
夏休みに何をするか、はたまた部活のことか
そんなことを考えている誰もが
彼女に注目をした。
それくらい、彼女の容姿は綺麗だったのだ。
黒い艶やかな長い髪。
真っ黒大きな瞳。
キリンを連想させるような長いまつ毛
繊細な手先、細く長い手足
一つ一つ階段を登るたびに揺れるスカート。
一線を画すオーラは、神や仏を連想させていた。
私が彼女ならどんなに素晴らしい人生を
送れていただろうか。
きっと、私の胸の内に渦巻いている
黒いヘドロからは程遠い生き物だ。
澄み渡った綺麗な世界が広がっているのだろう。
あの受賞した作品も、きっと彼女を形容するような
綺麗な作品に違いない。
そんなことを考えていると、集会を終えた全校生徒がクーラーの効いた教室に早足で向かっていた。
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ふと、鏡に映った自分を見た。
丸いシルエット。一重の両眼。
眼にかからないくらいの長さの前髪。
輪郭に揃えて切り揃えていたはずの毛先は
疎になっている。こけしを連想させるその見た目はとても、綺麗とは言えなかった。
そんな私が奇しくも彼女と同じクラスなのだ。
「ひな子!部活行こ!」
溌剌とした声がよく通る。高い位置で括られた髪が彼女の動きに合わせて軽快に動いている。
彼女は、田中ゆうき。クラスは違うが、私と同じ部活の生徒で、活動日は毎回教室にまで迎えにきてくれる。
夏休み明けも、いつもと変わらない日々だった。
私は「松本ひな子」と小さく書かれたファイルを片手に部室に向かう。私達は演劇部に所属していた。
私は今まで活動を怠ったことはなかった。毎回必死に真面目に取り組んできた。しかし、私が主役として舞台に上がることは、今まで一度もなかった。
「そういやさ、文化祭の劇の演目は決まったの?」
ゆうきが顔を寄せて食い気味に聞いてきた。
この子はまつ毛が長い。
「ひな子と同じクラスのさ。いるじゃん。
適任が。末永さん!」
「ゆうきは末永さん好きだよね。」
ゆうきは女性アイドルが好きで、末永さんが推しのよっしーに似ているため、いつも末永さんの話をする。
「うん!ぜったい、舞台映えするよ〜!」
「んー、どうだろなー。あの子そういうタイプじゃないと思うけど」
そう言いながら、私は
壇上に上がった彼女を思い出していた。
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「はい。それでは、文化祭の劇
シンデレラの役決めをしますー。」
この高校の文化祭は2年生になると、
各クラスで劇をすることになっている。
演目はそれぞれ好きに決めることができるのだが
うちのクラスの「シンデレラ」に決まっていた。
というのも、色々案が出たものの収拾がつかなかったので、有名な作品をいくつか紙に書いてくじ引きをして決めることにしたのだった。
「まず、この役やりたいって人いますかー?
希望が多いとじゃんけんっすけど」
どうしようかと周囲がざわざわしている中、
一本の白くて細い手が上がった。
それまで騒がしかったクラスが
一斉に静かになった。
クーラーの音が周りを包み込んだ。
文化祭実行委員がハッとして口を開く
「末永さんは、何の役希望っすか?」
「…私、人前に出るが苦手で、照明係がいいなって…」
劇は基本的に全員が舞台に上がらなくてはならない。ただし照明係に関してはクラスに最低1人は選出しなくてはならないので、1人は舞台に上がらない人が出てくる。
舞台が苦手なのならば、上がらないというのも一つの手であり、気持ちはわかる。
しかし、末永さんが手を挙げたことが問題なのだ。
確かに彼女は、内気で無口であまり人と関わろうとしない。劇をするだなんて、とても考えなれないだろう。
しかし、クラス中が同じことを考えていた。
「シンデレラ」の適任は彼女だろうと。
クラスがざわついている。
それを察したのか「…だめかな」と不安そうな顔をしている。
「…じゃあ、照明係は末永さんっすね。他に希望者いないっすか?いないなら決まりっすよ」
黒板に書かれた照明係の下に末永と書き加えられていた。
末永さんを差し置いてシンデレラ役なんてできない。そんな心理から、主役であるシンデレラの配役に誰も立候補しようとしなかった。
痺れを切らした文化祭実行委員が私の方を見る。
「そういや、松本さんは演劇部だったすよね。
シンデレラいいんじゃないすか?」
「え、私?」
自分の名前が呼ばれたことに驚いて間違いではないかと周りを見渡す。名前を言われた時は、
ネズミの役をしようかと考えていたところだった。
「主役が演技下手だったら良くないっしょ」
クラスのみんなが私の方を見る。
鼓動が早くなる。握っている手が汗で湿っている。
私が主役をやってもいいのだろうか。
しかも、役はシンデレラだ。
到底私に似合う役ではない。
でも…
「私、やろっかな。みんないい?」
欲が出た。
私はシンデレラで舞台に上がるのだ。
私は馬鹿だ。ここで大人しく脇役でも
担当していればよかったのだ。
あんな、思いをすることになるなんて。
ガラスの靴は痛すぎる。
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「あのー。筆返しにきましたー。」
最近は専ら放課後に劇の練習や
文化祭の小道具の準備をしている。
美術室からたくさん筆を借りていたため、使わない分を返しにきたのだったが
誰もいない。空っぽの美術室。
校舎の隅の美術室は、なんだか落ち着く空間だ。
もう、黙ってここに置いておくか。
そんなことを考えている
異彩を放つ、一枚の絵を見つけた。
サイズはポスターほどのサイズだった。
その絵は渦を巻くように、中心が真っ黒に濁っていて、吸い込まれてしまうようだった。
なんというか、見た者の感情ををごちゃ混ぜにしてしまう。そんなような絵だった。
「うわ…、呪われそう」
私は、筆を乱雑に机の上に置き、
美術室を出て行った。
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「あの絵ってどんなのなの?」
「あの絵?」
末永さんは小道具用に段ボールに色を塗っていたが筆を止めてキョトンとした顔で私を見つめる。
「夏休み前に受賞してたじゃん。すごいね。」
「…ありがとう。」
そう言って微笑み、目を逸らし、また筆を走らせていた。
受賞した絵については、何も答えなかった。
彼女は美術の時間は、端の席で1人で黙々と書いていたようだが、いつも放課後遅くまで残って、美術室で作品を描いていたそうだ。私と会った時のように。
納得いくまで突き詰めるタイプか、完璧主義者なんだろうかという予想が的中するかのように
彼女が塗った目の前に置かれている段ボールへの着彩。ムラがなく均一で、まるで印刷をしたかのようだった。
きっと受賞した作品もこんな作品なんだろうな。
「永末さん。うちのクラスで、シンデレラ役
やってよ」
買い出しに出掛けていた男子生徒達が開口一番に言い放った。
「似合うって。ぜったい。」
「やめなよー。末永さん困ってるから。」
末永さんは返答に困ってあたふたしていた。
そういえば、私たち2人は並んでしゃがんでいた。
そのせいか、気まずそうに私の横に並ぶ美女は、
より一層華奢に見えた。
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放課後に残って、家に帰っても劇の練習をしていた。たとえ、相応しくなくとも、最高の劇にする。
それが私に出来ることだと思うから。
セリフも完璧に覚えて、踊れるようにもなった。
ただ、ガラスの靴だけは慣れなかった。
流石に本物のガラスの靴を履くわけにはいかないのでネットでサイズを合わせたそれっぽいものを注文したのだったが
とても窮屈だった。
無理やり履いた足で走ったり踊ったりして
足が赤く腫れていた。
気づけば外はもう、赤く染まっていた。
窓の外には大きな鳥が羽ばたいていた。
「帰ろう。」
そう言って私は1人だけだった教室を出た。
空きクラスの前を通った時に
見覚えのあるクラスメイトが固まって話していた。
「やっぱさ、世の中変だよなー。松本みたいなのが主役で、末永さんが舞台に上がらないなんて。」
「正直、この劇誰が観たいんだよ。需要ねー」
「あちーし、練習やだなぁ、なんかあいつ張り切ってるし」
ミーンミーン…
蝉の鳴き声が耳を突き刺してくる。
私は、早足でどこかに向かっていた。
誰もいない静かな廊下で足音が鳴り響く。
はぁ…
はぁ…
暑さも相まってすぐに息が切れる。
何せこの教室は端にあって遠すぎる。
美術室と書かれたドアを乱暴に開ける。
あいつがいた。
「何してんの?さっき帰ってなかった?」
「私は、絵を、取り…に」
「よかったじゃん。」
「みんな、末永さんが良いって。シンデレラ。
私じゃなくて!」
彼女睨む。なんなんだ。なんでいるだよ。
そんな顔しないでよ…
「私…、人前に出るの苦手」
今まで下を向いていた彼女は、
バッとこちらを見た。
「…は?」
「だから」
「だから、演技できるの、すごいって思う。」
「なにそれ嫌味?」
こいつは、私を見下している。
「私さ、あの時も、なんで美術室に来たと思う?
ひとりで。」
「なりたかったからだよ。ひとりに。美術室だったら誰もいないだろって思って。」
ちょうどその日は部活の劇の配役を決める日だった。私は結局、脇役で主役にはなれなかった。
脇役は脇役らしく、隅で泣いていたかったのに。
「なんでいんだよ。私から全部奪わないでよ。」
「末永さんはさ、舞台に立つの苦手って言ってるけどさ、別にいいんじゃない?
話さなくても。何もしなくても。一緒じゃん。」
「なにしても無駄じゃん。」
気がづけば目の前の生徒は
一筋の涙を流していた。
私は悪くない。
だって、こいつは幸せになれるのだから。
こんなことくらい些細なことだって。
神は私を許してくれる。
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それから私は、高校を卒業して、普通の大学に進学して、他県に就職して、結婚して、普通の人生を送ってきた。
ただ、あの時に、たまたま
私の人生に彼女がいただけだ。
メイクやファッションを研究して
「かわいい」と言われるようにはなった。
それなりの幸せは手に入れた。
そんなことを言いつつも、時々頭によぎる。
海外にでもいるのだろうか。
それとも、お金持ちの男を捕まえて
幸せに暮らしているのだろうか。
私は、この夏に実家に帰ってきていた。
地元特有の懐かしい香りが、余計に記憶の栓を抜いたのだ。
カフェに立ち寄った帰り、散歩が歩いていると、異色を放つ小さな個展らしきものが開催されていた。
扉の前に立ちすくんでいると
後ろから数人やってきた。
「あの、入りますか?」
「え、あぁ、すみません。」
そう言って咄嗟に扉の中に入ってしまった。
無料だし、せっかくだからと見てみるかと
作品に目をやるがどれも見ていて
気持ちのいいものではなかった。
「作者の人病んでんのかな。
どれも作品の名前からして怖いし。
意味わかんないわ。」
作者を軽くスマホで調べてみるも、
顔出しを一切していないようだった。
一体どんな人がこんな絵を描くのだろうか。
不幸、なんだろうな。
だから、こんな絵を描くんだ。
そう心の中で湧き出てきた感情が
少しの優越感の餌になっていた。
最後にひとつだけ、他の作品と
作風が異なるものがあった。
描いた時期が違うのだろうか。
まるでそれは嵐が吹き荒れ
掻き乱されたような絵だった。
数点、水が滴ったかのような
黒い斑点が。
この絵を見た者の感情をを
ごちゃ混ぜにしてしまう。
そんなような絵。
「あれ?」
私はこの絵に見覚えがあった。
この絵の近くには、解説用のPOPが展示されていたのでそれを読むことにした。
この作品は、作者が高校2年生の時に受賞──
「同じ高校じゃん。それにこの年って…」
鮮明に映像が浮かび上がる。
壇上に上がるあの人。
あぁ、そうか。
この作品を書いたのは彼女だ。
あの時に美術室に置いていた不気味な絵は
彼女が描いたものだったのだ。
そうだ。
鼻血を垂らしながら描いていた作品。
あの時の、作品のテーマは
「自分」
時間と共に爛れ落ちるように
赤く黒く濁った絵を見つめて。