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『君の名は。』の感想

 以下の文章は、ツイッターに長文を連投するつもりで書いてみたものの、あまりにもTL汚しが過ぎるだろうと思いとどまり、ではせっかくだからnoteに投稿してみようと思い立ち、ほぼそのままコピペしたものです。

------ここから原文コピペ------

年明け3日に地上波で初放映していた『君の名は。』の録画を観たので、ちょっと長めに感想を吐きます。
概ね肯定的な感想とは言いがたいのですが、吐き出さずに肚に溜め込んじゃうと中で腐って精神衛生上良くないので……まあセルフカウンセリングみたいなモノです。
なので、原則的にリプ欄等で意見交換とかはしませんので、あしからず。

一昨年、劇場で観て以来、まともに観るのは2回目なんですが、やっぱ上手くライド出来なかったな…。まあ、観る者と作品の食い合わせってどうしてもあるじゃないですか。僕と『君の名は。』の場合、少々食い合わせが悪かったというだけの話です。

一昨年、劇場で観てる間と見終わった直後はめくるめく映像スペクタクルと大音響(立川シネマシティの極爆上映で観ました)の余韻で「思ったより嫌いじゃないな…(もともと新海作品がちょっと苦手)」と思ってたんですけど、時間が経過し醒めた頭で内容を反芻するごとに「アレ?アレアレ?」と思う箇所が多くなって、脳内に巨大なノイズが鳴り響くようになってしまったんですよね。

今回視聴したら一昨年観た時よりかはだいぶすんなり観れたんですけど、やはりモヤモヤは残ったままでした。

僕の中で最大のモヤモヤポイントは「主人公ふたりが糸守町民500人を救っちゃったこと」なんですね。

500人を救ったという事実は作中の報道などで臭わされるだけで、実際に三葉父娘が町民を隕石墜落の災禍から救った顛末は具体的に描かれなかったんですが、公開直後はそこも輪をかけてモヤモヤした一因です。例えるなら、『シン・ゴジラ』でヤシオリ作戦を実行しゴジラを冷温停止させるパートを丸々カットしたかのような肩すかし感を覚えちゃいました。

でも、今はそこを具体的に描かなかったのもわかるんですね。三葉が親父さんを説得出来たら、そのあと活躍するのは親父さんと町役場と消防団あたりで、三葉に出来ることと言ったら目が届く範囲の子供や老人を高校まで誘導するぐらいでしょうから。

町民の避難誘導をエンタメとして面白く描けるか?という話なので、「それはこの作品の主題ではない、クライマックスはそこじゃない」「三葉と瀧くんの関係性が物語の主題である」ことはよどみなく納得出来るんです。

…出来るんです、が、でも、だったら「糸守で助かるのは三葉だけでよかったよな」とか思っちゃうんですよね。思考が跳躍してるし、冷酷な考え方ですけど。三葉ひとりを災禍から救うだけだったら尺的にも絵的にも具体的な描写が出来るでしょうし、そこにクライマックスを持ってきてもいい。瀧くんが三葉を救いたかった気持ちがさらに強調されるとも思うし。

常人には与えられないチートを使って時間を遡行し、セーブポイントからやり直しをしてまで思い人を救う/救われるのなら、「でも町人500人は救えなかった」ぐらいの十字架は背負って生きろよ(設定上、ラストの瀧くんは三葉と協力して町民を救ったことを知らないんですけど)……とか思っちゃうんですよ、僕個人の収支の感覚だとどうしても。

あえてイキッた言い方をすると、「キミら、神にでもなったつもりか?」と。

死ぬはずだった町人500人が死ななかったことは、その500人の命の問題だけでは済まないはずです。

500人が亡くなったからこそ発生するひととひとの出会い。その結果産まれる命もあるでしょう。そして、その命が別の誰かと出会ってまた命が産まれる……人類が滅ぶまで紡がれていくであろう数万数億の命の系統樹が、町人500人が死ななかったことによって大きく書き変わったり、まるごと失われてしまったりすることも有り得ると思うんです。

それでは主人公ふたりの思いを成就(収入)させるのに支払われる対価(支出)が余りにも大きい。

それだけのコトをやらかした主人公ふたりに課せられた代償が「数年の恋愛おあずけ」と「日々ふとしたことでアンニュイになる程度の喪失感」というのはいかにも軽い……この場合は500人が死ななかったことにより変わる歴史に対して支払われる支出があまりにも小さい。どちらにしろ、収支のバランスがおかしいのでは……と思っちゃうんですよね。

今生で恋も500人の死の取り消しも総取りするのは少々がめついのでは……そうだ、折衷案として恋の成就は、それこそ「来来来世」あたりにしたらどうでしょう?設定的にも納得感があるし、物語的にも遠大で美しいかったのでは?
とか……まあ、独りよがりのタラレバなんですけど。

三葉と瀧くんがたった1回のリトライで歴史のリライトに成功してしまっているのことも、素直に「アンタらようやった!天晴!」とは思えないポイントですね。トライ&エラーの回数が多けりゃいいってことでもないんですけど、やはりなんというか「奇跡が軽い」と感じてしまう。前述した、災害後のふたりが過ごしてきた数年ばかりの時間も含めて。

比較するわけじゃないんですが、『STEINS;GATE』のオカリンは三葉や瀧くんとふたりと同じく、時間を遡って歴史を変えちゃう主人公ですが、歴史改変(世界線移動)を成就するまでに、自らの人格形成に大きく付与する幼馴染みのまゆしぃを幾度と無く目の前で失うという常人では堪え難い試練を経ており、個人的にはとても納得感と感情移入度が高いですね。

ただ、三葉と瀧くんが嫌いな主人公かと言えばそうでもないです。

自分達が死の運命(死ぬはずだったのは三葉ですけど)を免れ結ばれるために、町人500人が亡くなった場合に産まれたはずの無数の命を運命(むすび)の神に生け贄に捧げたふたり……そう考えるとSFサスペンスの主人公として俄然キャラが立ってくるではありませんか。そういうの結構好きです。

しかし、そのふたりがラストでチートもギミックも一切使わずに、本当に”ただ偶然”再会してしまったことで、「あー、はいはい、わかります。それこそが本当の奇跡&運命ってことなんですよね!おめでとうございますぅ〜、末永くお幸せに!」と祝福の呪詛を吐いてしまうのは、僕の心が汚れてるからです。アンビバレンツですね。

その他にシナリオ上で気になるのは、「話の流れや設定を成立させるために登場人物が不自然にポンコツになってる」ことが多いところでしょうか。

糸守の図書館で犠牲者名簿の中に三葉の名前を見つけ存在を確認した夜、宿で瀧くんは三葉の名前を忘れてしまいましたが、アンタら3人だれもメモもコピーも写真もとらなかったんかい!?三葉が実在していた証が欲しくて仕事も学校も休んで糸守くんだりまで来たんじゃないのか?とつっこまずに入られませんでしたし、

自室の様子や建築デッサンが上手いことから、少なからず建築土木方面の仕事に興味があるように見えた瀧くんが、何度も入れ替わってる間に「糸守」という地名になんの違和感も感じなかったのは少々薄情なのでは?
とか

入れ替わり生活の後ろの方では互いに入れ替わっている間にそれぞれの生活を楽しむ余裕も生じていたようだし、もうすこし周り(地名や年や時事のズレ)が見えてもよいのでは?
とか考え始めると、ノイズがノイズを産み出しノイズの嵐状態に……。

でもまあ、最初に述べた通り、僕と『君の名は。』の食い合わせが悪かっただけで、細かいところを気にせずにハマれてる作品なんていくらでもありますしね。例えば、僕の大好きな『ファイブスター物語』なんて矛盾と後付けと設定改変の奔流ですよ。

あとはー…キャラクターが心情をほぼ全部台詞やモノローグで吐露してしまう演出が劇場で観た時は「クドいなあ」と思ったんですが、今回みたらそれほどイヤではなかったです。慣れかな?でもやっぱクドいものはクドい。

以上です。TL汚し、大変失礼いたしました。
新年からこんな長文駄文を書き綴らずにはいられないほど心に刺さったということでお赦しを。


蛇足ですが、劇中に出てくる糸守町の日没がこんなかんじでちょっと自分の理解を超えてました。

僕が勘違いしているだけかもしれないし,なんならもうとっくに考察されて結論が出てるんでしょうけど……。

------ここまで原文コピペ------


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