わたしがわたしのために、彼女のために。
休みの日、1人で過ごしているとストーリーの量が増える。
個人的になんか嫌だなと思っていた。承認欲求を満たそうとしている感、SNSに囚われてる感、なんか見せない方が美徳な雰囲気に反してるというか。
「あんのこと」を観た。虐待や売春やクスリ。現代社会の闇にとことん、もう痛いくらい向き合う作品だった。そして自分が何不自由なく暮らしている中でこんなことが起こっていることにショックを受けた。あまりに感情移入してしまい、後半は苦しくて涙が止まらなかった。閉塞的になってしまったコロナ禍の状況も相まって起きた悲劇を目の当たりにし、わたしがわたし自身に、また周りにできることはなんだろうと、夜中、湯船に浸かりながら考えてみた。
映画を観て、何もかも奪われ、明るい未来が見えなくなった杏に必要だったのは、ほんの少しのきっかけなのだと思った。更生させようと手を差し伸べてくれた刑事の多々羅、一緒にご飯を食べたり、勉強を教えてくれたり、カラオケに行ってくれた記者の桐野、突然預けられた小さな隼人、介護施設の職員や入居者、日本語学校の人たち。もちろん心では深く繋がっていたかもしれないが、言ってしまえば赤の他人。それなのに彼らがもたらした出来事によって、杏は大きく前に進んでいた。絶望的な状況の中、身内以外の助けこそが、杏の希望になっていた。
もしかしたらSNSにはそういう側面があるのかもしれない。離れて暮らす家族、休みの合わない友達、趣味の合う遠方の知り合い、顔も知らない誰か。日常的に顔を合わすことはできないのに、なんだか近くに感じて不安が和らぐことがある。(地震の時にXで地震と検索してみんな呟いてると安心するみたいな…!)誰がどこで何をしててどんな生活をしているのか。 何が好きで、何が楽しくて、何が嫌いで、何が不安なのか。少しのきっかけがゴロゴロと転がっている。
そう言ったきっかけが、とりあえず明日だけでも生きてみようというきっかけになって日々が続いていくのなら、誰かがどこかで生きているというだけで希望になるのなら、わたしの生活を休みの日にちょっと多めに上げたくらい屁でもない。何が美徳だという話だ。
実際、誰の目に留まっているかもわからない世界で、なんなら24時間で消えてしまう世界で、そんな深く考える必要もないし、日曜の夜のおセンチだということは間違いない。ただ、考えすぎのわたしにとってもそうやって放出することがもはや、「少しのきっかけ」になっているのだ。自分の中で熱を持って溜まっていく言葉や考えに、1人でもがき苦しむくらいなら出して仕舞えばいい。
杏が外部との関係を断ち切られることがなければ、人と繋がり、生きる希望になっていたなら、閉塞的な世の中になっていなければ、あと少しで彼女の未来は違っていたのかもしれない。今この瞬間も同じような苦しみを抱えた人に、どうか救いの手が差し伸べられますように。インターネットの世界でもほんの少しのきっかけを見つけられますように。それが運良く私のわたしの言葉だったら、とても嬉しい。