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詩を感じる | 個人的に響いた室生犀星の詩集から六篇

とあるきっかけから、久しぶりに室生犀星の「愛の詩集」(角川文庫)を開いたのが昨日のこと。

この詩集を(私のはカバー無し)以前古本屋さんで購入してからというもの、さらさらとページを捲ってしまっているだけであったのだが、その気で読んでみると結構心に届く詩篇が多く収められている。

本来、一編の詩を理解するだけでも一作の小説を熟読するぐらいのエネルギーが要るので、短時間に複数の詩篇を味わうのは自分の中ではナンセンスではありながらも、いくつか個人的に印象深かった詩を挙げてみたいと思う。
しかし、下記の感想はあくまで私の個人的な見解であることをご了承願いたいと思う。

1.自分もその時は感涙した
警官に完膚なきまでに締め上げられた酔っ払いを傍で見ていると思われる短い詩であるが、最後の一行で言い様のない哀しみが伝わってくるのである。

2.燭の下に人あり、本を読めり
読書が好きであれば、この詩に認められた空虚な心情が痛く解るかもしれない。
読書ばかりしながら暮らしているうちに、いつの間にか時候も移り変わってしまったというもの。
そしてまたページを捲る手に、そこはかとない寂寥を感じる一編である。

3.犬
近所のよく吠える野良犬に心乱される程のストレスを感じながらも、犬が野犬となり人間を警戒する所以を考えると、憎むに憎めぬ複雑な感情を抱えてしまったというもの。
この感情の機微が意外と身近に感じるのである。

4.安息日
先に投稿したランボーの詩「居酒屋みどり」でに通じるものがある気がしている。
通りかかった寂れた家並みのある一家の平和な光景に安堵を感じるというもの。
冒頭の"場末の屑屋”に屑屋という先入観を抱きつつも、そこで展開される温かい家庭の光景に安寧を覚えるという、最初と最後で印象が変わる表現がとても心地よい。
こちらの選詩のうちでも一番お気に入りかもしれない。

5.汚らわしい詩の一章
ある女たらしの画家を死ぬ程憎みながらも、私(多分男)を抱く友人の行為に、声には出さぬ汚らわしさを感じていると想像を巡らせる。
性癖で言えばどっちもどっちではないかと思う心情が表れているようだ。
作中に「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャが喩えられている。

6.はじめて「カラマゾフ」兄弟を読んだ晩のこと
父親の死と書物との掛け合わせが絶妙である。室生犀星の詩篇にはドストエフスキーなどロシア文学や寂寥を感じるものが割と多い。

まだよく読まれてない詩の中にも、この六篇を上回る情感の一編があるかもしれない。



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