離見の見は主観の交換である
仕舞や舞囃子のお稽古をする際に、先生の所作を真似しながら練習をする。そのときに、先生の姿を客観的に見て、それを真似しようとしても、実はあまりうまくいかない。生徒の視線から見る先生の姿と、自分自身の姿とは、当然視点のズレがあるために、正確に重なっていかないからだ。答え合わせをしようとしても、見ている視点との位置関係が違うため、正解がわからない。
そこで必要となるのが、先生が見ている風景をイメージして、それと同じ風景となるように身体を動かしていく、という作業だ。先生がそのような姿勢でいるということは、こういうふうに世界が見えているのではないかと推測して、同じような風景が見えるように自分の身体を持っていくのである。先生になりきって、能舞台を見る。先生と同じ視点から能舞台の空間を眺め、その差異を調整していく作業だ。自分の身体感覚だけに閉じこもっていたら、先生のマネはできないのだ。
この意識の違いに気づいたのは、能の稽古を始めて10年ほどたってからだった。それまでは、鏡で映る自分をみながらでしか、自分の姿を確認できなかった。壁一面が鏡になっているダンススタジオで個人的に練習する際に、初めて「ああ、先生と全然違う」ということに気づく。これはこれで練習して近づくことはできるが、これは西洋的なダンスレッスンのアプローチに思う。客観的視点から自己を見ることで、自己を認識するのである。
能の場合は、基本的にはこうした鏡に映して練習するようなことはやらない。あくまで先生と同じ練習の舞台に立ち、先生と同じように所作を繰り返し、注意を受けながら練習する。このとき、自分の身体と先生の所作との間のアナロジーによって、先生の体験を類推する。鏡を通じて自己を見るのではなく、先生の視界の窓に映っているものを追体験しながら、自分の身体を認識していくのである。主観的視点を共有することで、身体を認識するのである。
だからだろうか、K-POPアイドルが寸分違わないダンスを披露しているのに対して、能の舞いは、そうした客観的に見たときの一致はそこまで気にしていない。身体も違う人が演じる舞台に、違いが生まれるのは当然である。代わりに、主観的な体験として同じものを経験しているか。その主観の共有について、つまり同じものを見ているかということについて、意識を向けているように思う。
本来、こうした主観的視点は共有がしづらい。しかし、能は能舞台という共通の土台があるために、これが可能になる。柱のどのあたりに見ながら向かうのか、舞台の端からどのくらい離れた場所で止まるのか。四本の柱のある正方形の能舞台では、主観的体験を言語化し、共有しやすい。どこに向かうのか、その志向性をすり合わせていくのに、能舞台という装置は重要な役割を果たしているのである。
そしてこれは、離見の見という話にもつながっていく。世阿弥は『花鏡』のなかで、「わが眼の見る所は我見なり。離見の見にはあらず。離見の見にて見る所は、すなわち見所同心の見なり」と書く。自分が見る景色は、我見であり、離見の見ではない観客の視点から自分を見なさい、というのである。
観客の視点は、演者とあまりに違うところにある。にもかかわらず、そこで観客の視点をシミュレーションし、自身の姿を調整できるのは、お稽古自体がそのトレーニングとなっているからではないだろうか。離見の見とは、鏡にうつすようにして客観的に自己認識する、という意味ではない。観客を含め、他人の主観をシミュレーションして、主観を自由自在に交換し、自分を見るのである。能の稽古から学べるのは、客観的自己認識ではなく、多様な主観からみた多面的自己認識なのだ。
小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師