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オンリーワンと体験格差

子どもが生まれてからここ数年ずっと闘っていた事がある。それは最近になってからそっと手放せたのだが、心に多少の傷を残して昇華されていった。

子どもを何人育てるか、問題。

私は三人兄弟の長子で下に弟と妹がいる。夫は二人兄妹の長子で下に妹がいる。どちらも長子であり、下に兄弟がいることは共通している。ゆえに兄弟がいることのメリットデメリット両方を享受してきているだろうし、それはまた我々が親としても子に兄弟を作るものだろうと、ぼんやりと思っていた。しかしいざ子どもが生まれて無事一年を過ごし、その成長を喜ぶと共に兄弟の話になった時、夫は私にこう言った

「一人でよくないか。」

正直ショックだった。兄弟を育てると思ってたのは自分だけだったのだろうかと突き詰めて話をした。夫は兄弟がいた方がいいだろうとは思っていること、しかし時代的には一人っ子も多いであろうこと、そして経済的に子の要求に一人ならば大抵は応えられるであろうことを述べた。

二人いると我慢を強いる機会が多いであろうこと、選択肢を少なくせざるを得ないであろうことが気掛かりなのだという。私は産み育てて後の事はその都度折り合いをつけていくものだろうと思っていたので多少の我慢を強いたり選択肢が少なくなることについてさほど気にしていなかった。

親の所得という制限の中でふるまうこと

私の父は普通のサラリーマンで母は寿退社して以来ずっとパート等にも出ず専業主婦として暮らしている。その中で三人の長子として育った身としては、確かに高校は公立でないとだめだとか、大学も公立にしろだとか縛りは色々あり、不貞腐れながらもそれをやむを得ないとして受け入れたように思う。

しかし今振り返って思うのは、それらの制限は多少のストレスではあったものの長子として家計を助ける一つの術だろうと自分なりに努力をし、高校も大学も公立に入ったことは自信という糧になったということだ。それらについて親に恨みを抱いてなどもいない。(私は公立を卒業後私立に三年次編入している)

旅行にもあまり沢山出掛けたことがないしディズニー等といったテーマパークに足繁く通えるようになったのも社会人になって自分で稼ぐようになってからだ。もっとお金持ちだったらなぁと子どもながらに考えたことは勿論あるが、きっと誰しもそういう経験はあるように思う。親は親なりに努力していただろうし、私には兄弟の長子であるということを何かにつけて意識させられていたのでやむを得ないとしか思わず、特段食べることに困っていたわけではないのでそれが普通なのだとすら感じていた。

だが私は親の仕事の都合で米国に数年滞在したことで多少なりとも日本とは異なる文化を体験することが出来た。これは私の人生に大きな影響があり、苦労ももちろんあったがそれ以上によき思い出として残っている。私の人格の大部分はこの滞在時に作られただろうし、異文化体験をしたことを結果的に良かったと感じる今私は同じ経験を自分の息子にさせてあげられないことを多少申し訳なく思う。

家庭がもたらす体験格差

どんな家庭に生まれたかで子どもが成長にとって大切な「体験」をすることに大きな差が開くといわれる「体験格差」という言葉がある。

かつてこんな言葉があっただろうか?と考えると、子どもが親の付属ではなく、より主体として重んじられる良い時代になってきたのかもしれない(私などはこの言葉に多少の神経質さを感じてしまうのだが。)

所得が上がらないワープアの国で親の責任は重く、労働と子育ての間で常に喘いでいる印象が拭えない。子どもは贅沢品となり、結婚は遠のいた。高齢化も少子化も進む中、貧困が蔓延る。己の生活もままならないのにどうやって子を育てろというのか。そうしたしわ寄せが子どもの体験にまで及んでいるのだ。

かつて流行した「親ガチャ」という言葉を思い出す。これを見聞きした当初親になったばかりだった私と夫は困惑していた。親がどうであれ子どもが失敗だと思えば失敗なのかもしれない、と思ったからだ。この体験格差という言葉にも似たようなニュアンスを感じられる。

もちろんこうした事態に率先して手を挙げ、格差を少しでも縮めようと努力する企業の働きはとても素晴らしい。もし仮に自分が自由の身ならそういった活動の一部に参加したいと思う。しかし一親としてこの言葉と向き合ったとき、私は身の締まる思いがした。私が、そして夫が親として努力せねば子はその体験に差を感じることになるかもしれないのだ。

すると色んな疑問が頭をもたげてくる。世間一般はどんな体験をするのだろう、私がかつて体験してきたことはどのくらいのレベル感なのだろう。どれくらいやれば平均的なのだろうか…正直、よく分からない。

親として我々が出来ること

結局未だ明確な解答を得ないままのこの格差問題について前向きにとらえ、成せることといえば自分たちが親として出来ることを精一杯やっていくしかない、ということだった。

将来子どもが成人した頃、親として40点をつけられるかもしれない。しかしそれは自分なりに努力した結果であり、それはそれとして受け止めていこう(後ろ向きに言えばそうすることしか出来なかったともいえるかもしれない)とここ数年考えているうちに思えるようになった。

私達夫婦が親として子どもの要求に応えられるのは一人が限界なのかもしれない。自分なりに、そして夫なりに子どもに対して出来る誠実な対応を鑑みた結果としての「一人」という選択なのである。

この考えに至るまでに多大な時間を要した。またこういった問題はそう簡単に答えが出るものでもなく、不器用な母が一人の子どもに接していくこれからの数十年、どこかでまた燻ぶってくることもあるかもしれない。たった一人育てることに四苦八苦する姿は多子を育てる夫婦からは疑問に思えるかもしれない。それでも、この選択でいく責任を持とうと腹に決めた。

もしそういうことで悩む人がいれば、こんなやつもいるんだと一例として参考になればいいなと思う。

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