
映画「君が生きた証」を観て
1月13日、「君が生きた証」という映画を観た。
英題は「 The Theory of Everything」。2014年のアメリカ映画で、ウィリアム・H・メイシー監督の作品だ。
キャストは、サム役のビリー・クラダップ、ジョシュ役マイルズ・ハイザー、クエンティン役のアントン・イェルチン、ローレンス・フィッシュバーンなどである。
あらすじは、
やり手広告マンのサムは、大口の契約をまとめた祝杯を上げようと大学生の息子ジョシュを呼び出す。ところがジョシュは現れず、スポーツバーのテレビに流れたのはジョシュの大学で銃乱射事件が発生したというニュース速報だった。
2年後。銃乱射事件でひとり息子を失ったサムは会社を辞め、湖のボートハウスで荒んだ生活を送っていた。ある日、別れた妻エイミーからジョシュの遺品を渡される。遺品の中身はジョシュが使っていたエピフォンのギターと、ジョシュが録り溜めていた自作曲のデモ音源と歌詞ノート。ジョシュの曲をギターで爪弾くようになったサムは、ある晩ライブバーの飛び入りステージに参加する。
サムが演奏した曲に感銘を受けたロック青年のクエンティンは、サムのボートに押しかけて一緒に演奏しようと提案。クエンティンの情熱に押し切られたサムはバンド「ラダレス」を組むことになり、地元で人気を博するようになるのだが、胸の奥には明かすことのできない秘密があった。
といった内容。
で、観終わっての感想。
途中から”まさか”の展開
最初に、銃乱射事件があり、息子が殺された。
・・・・そう思っていた。
しかし、途中で、(そうだったのか!)と、それまでの映像の謎が、一気に解決する。ただ、鑑賞者側からすれば、まさかの展開である。
一気に180度、見かたが変わる。
被害者から、加害者へ。かなりキツイ。
父親の気持ち、母親の気持ち
さて、加害者の息子の父親、そして母親。
その心情は如何なるものだろう。
現実から逃避する父親。現実を受け止める母親。
いずれにしてもその気持ちを考えると、想像さえむずかしい。
加害者が息子とはいえ、自分が犯したことではことではない。
でも、息子が犯した罪である。
父親が逃避する気持ちは、すごく分かる。
母親が、墓に書かれた”KILLER”の文字を見て、「こんなことはいつものこと」のようなことを話す。ここに至るまで、どれぐらい苦しんだのだろう。
現実を受け止める辛さ
現実から逃避してきた父親は、大学に向かう。そこで殺された学生たちの名前が刻まれた慰霊碑を見る。父親は声をあげて泣く。
息子の犯した罪の大きさ。そして、被害者である息子の名前はそこには刻まれていない。当然ではあるが、息子は犯罪者。そこに生きたことさえ認められないのである。
息子の気持ち。音楽に込められた思い。
音楽を通して、息子は訴えていた。
自分の苦しみ、どうしていけばよいのか。
彼は音楽を作ることで、その苦しみから逃れてきたのかもしれない。
両親の離婚。やるせない思い。自分の存在意義。なじめない大学生活。
たくさんのできごとが重なり、彼は爆発したのかもしれない。
父親の電話。音楽作成中の邪魔。
その爆発を、抑えきれなくさせたきっかけが、その日にはあった。
息子の作った音楽を通して、新たな若者との出会いが起こる。
その若者を通して、逆に彼は学んでゆくのである。
今まで逃避してきた現実。そして初めて息子と向き合う。
もうそこには、息子はいない。
息子が生きた証を、父親は彼の心を歌うことで、噛みしめるのである。