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美禰子の告白を拒む三四郎  破局の原因は? STRAY SHEEPのなぞを考える

美禰子に誘われて、展覧会についてきた三四郎。絵のことがわからず、美禰子と会話にならない中、決定的な出来事が起こります。
ここは「三四郎」の最大の山場ではないでしょうか。 

本文は青空文庫から引用しました。

それでも好悪《こうお》はある。買ってもいいと思うのもある。しかし巧拙はまったくわからない。したがって鑑別力のないものと、初手からあきらめた三四郎は、いっこう口をあかない。
 美禰子がこれはどうですかと言うと、そうですなという。これはおもしろいじゃありませんかと言うと、おもしろそうですなという。まるで張り合いがない。
話のできないばかか、こっちを相手にしない偉い男か、どっちかにみえる。ばかとすればてらわないところに愛嬌《あいきょう》がある。偉いとすれば、相手にならないところが憎らしい。
 長い間外国を旅行して歩いた兄妹《きょうだい》の絵がたくさんある。双方とも同じ姓で、しかも一つ所に並べてかけてある。美禰子はその一枚の前にとまった。
「ベニスでしょう」
 これは三四郎にもわかった。なんだかベニスらしい。
ゴンドラにでも乗ってみたい心持ちがする。三四郎は高等学校にいる時分ゴンドラという字を覚えた。それからこの字が好きになった。ゴンドラというと、女といっしょに乗らなければすまないような気がする。黙って青い水と、水と左右の高い家と、さかさに映る家の影と、影の中にちらちらする赤い片《きれ》とをながめていた。すると、
「兄《あに》さんのほうがよほどうまいようですね」と美禰子が言った。三四郎にはこの意味が通じなかった。
「兄さんとは……」
「この絵は兄さんのほうでしょう」
「だれの?」
 美禰子は不思議そうな顔をして、三四郎を見た。
「だって、あっちのほうが妹さんので、こっちのほうが兄さんのじゃありませんか」
 三四郎は一歩退いて、今通って来た道の片側を振り返って見た。同じように外国の景色《けしき》をかいたものが幾点となくかかっている。
「違うんですか」
「一人と思っていらしったの」
「ええ」と言って、ぼんやりしている。
やがて二人が顔を見合わした。そうして一度に笑いだした。美禰子は、驚いたように、わざと大きな目をして、しかもいちだんと調子を落とした小声になって、
「ずいぶんね」と言いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行ってしまった。
三四郎は立ちどまったまま、もう一ぺんベニスの掘割りをながめだした。先へ抜けた女は、この時振り返った。三四郎は自分の方を見ていない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向こうから三四郎の横顔を熟視していた。

せめて共通の趣味でもあれば、美禰子と打ち解けることができたのに。
残念なことに三四郎は、絵がさっぱりわかりません。美禰子の言葉に、機械的に反応するだけ。おまけに、兄妹である画家の区別すら気づかないのです。
これでは美禰子はがっかりしてしまいます。教養の差、趣味の違い、関心を持つ世界の違いがあるために、二人は近づくことができないのです。

しかし、美禰子はそれにもかかわらず、「向こうから三四郎の横顔を熟視していた」のです。
美禰子宅で金の貸し借りをめぐっての気まずいやりとりがあり、展覧会に来るまでの道中でも会話がなく、何ら美禰子の琴線に触れてこなかった三四郎。
そんな木石のような三四郎に対し、熱い視線で見つめる美禰子。
言わずもがなですが、美禰子は三四郎に惚れているのです。
気づけよ、三四郎!


「里見さん」
 だしぬけにだれか大きな声で呼んだ者がある。
 美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。
事務室と書いた入口を一間ばかり離れて、原口さんが立っている。原口さんのうしろに、少し重なり合って、野々宮さんが立っている。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るやいなや、二、三歩あともどりをして三四郎のそばへ来た。人に目立たぬくらいに、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。そうして何かささやいた。三四郎には何を言ったのか、少しもわからない。聞き直そうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返していった。もう挨拶《あいさつ》をしている。野々宮は三四郎に向かって、
「妙な連《つれ》と来ましたね」と言った。三四郎が何か答えようとするうちに、美禰子が、
「似合うでしょう」と言った。
野々宮さんはなんとも言わなかった。くるりとうしろを向いた。

声を掛けた原口さんのうしろに野々宮さんがいることに気づいた美禰子は、三四郎の耳元に何かささやきます。
三四郎は聞き取れませんでした。
美禰子のこの行動は、決定的な意味がありました。
もう少し先を見ましょう。


「もう、みんな見たんですか」と画工が美禰子に聞いた。原口は美禰子にばかり話しかける。
「まだ」
「どうです。もうよして、いっしょに出ちゃ。精養軒でお茶でもあげます。なにわたしは用があるから、どうせちょっと行かなければならない。――会の事でね、マネジャーに相談しておきたい事がある。懇意の男だから。――今ちょうどお茶にいい時分です。もう少しするとね、お茶にはおそし晩餐《デナー》には早し、中途はんぱになる。どうです。いっしょにいらっしゃいな」
 美禰子は三四郎を見た。三四郎はどうでもいい顔をしている。野々宮は立ったまま関係しない。
「せっかく来たものだから、みんな見てゆきましょう。ねえ、小川さん」
 三四郎はええと言った。

「じゃ、こうなさい。この奥の別室にね。深見《ふかみ》さんの遺画があるから、それだけ見て、帰りに精養軒へいらっしゃい。先へ行って待っていますから」
「ありがとう」

原口の誘いを辞退して、三四郎と残って絵を見ると答える美禰子。
次の二人のやりとりに注目してください。


「これもベニスですね」と女が寄って来た。
「ええ」と言ったが、ベニスで急に思い出した。
「さっき何を言ったんですか」
 女は「さっき?」と聞き返した。
「さっき、ぼくが立って、あっちのベニスを見ている時です」

 女はまたまっ白な歯をあらわした。けれどもなんとも言わない。
「用でなければ聞かなくってもいいです」
「用じゃないのよ」
 三四郎はまだ変な顔をしている。
曇った秋の日はもう四時を越した。部屋は薄暗くなってくる。観覧人はきわめて少ない。別室のうちには、ただ男女《なんにょ》二人の影があるのみである。女は絵を離れて、三四郎の真正面に立った。
「野々宮さん。ね、ね」
「野々宮さん……」
「わかったでしょう」

 美禰子の意味は、大波のくずれるごとく一度に三四郎の胸を浸した。
「野々宮さんを愚弄《ぐろう》したのですか」
「なんで?」
 女の語気はまったく無邪気である。三四郎は忽然《こつぜん》として、あとを言う勇気がなくなった。無言のまま二、三歩動きだした。女はすがるようについて来た。
「あなたを愚弄したんじゃないのよ」
 三四郎はまた立ちどまった。三四郎は背の高い男である。上から美禰子を見おろした。
「それでいいです」
「なぜ悪いの?」
「だからいいです」
 女は顔をそむけた。
二人とも戸口の方へ歩いて来た。戸口を出る拍子《ひょうし》に互いの肩が触れた。男は急に汽車で乗り合わした女を思い出した。美禰子の肉に触れたところが、夢にうずくような心持ちがした。
「ほんとうにいいの?」と美禰子が小さい声で聞いた。向こうから二、三人連の観覧者が来る。
「ともかく出ましょう」と三四郎が言った。下足《げそく》を受け取って、出ると戸外は雨だ。

美禰子が三四郎の耳元でささやいたのは、野々宮さんに、三四郎と仲のよいところを見せて、三四郎を好きであることを知らせるためでした。
三四郎が、美禰子との関係を考えるとき、野々宮さんの存在を意識して動けないでいることをよく知っているのです。
野々宮さんに知らせる意味よりも、三四郎自身に、あなたのことが好きだとわからせるためなのです。
ところが、三四郎は、それがわからず、野々宮さんを愚弄したと言い出す始末です。
美禰子を見下ろし、「いいです」と言って、怒ってしまう。
三四郎は、あの汽車で出会った女の事を思い出しています。三四郎が愚弄されたと思って赤面した相手です。
美禰子にも愚弄されたと思い込んでしまったのでしょう。
かわいそうな美禰子は、小さい声で「ほんとうにいいの?」と確かめます。

「精養軒へ行きますか」
 美禰子は答えなかった。雨のなかをぬれながら、博物館前の広い原のなかに立った。
さいわい雨は今降りだしたばかりである。そのうえ激しくはない。女は雨のなかに立って、見回しながら、向こうの森をさした。
「あの木の陰へはいりましょう」

 少し待てばやみそうである。二人は大きな杉の下にはいった。雨を防ぐにはつごうのよくない木である。けれども二人とも動かない。ぬれても立っている。二人とも寒くなった。女が「小川さん」と言う。男は八の字を寄せて、空を見ていた顔を女の方へ向けた。
「悪くって? さっきのこと」
「いいです」
「だって」と言いながら、寄って来た。「私、なぜだか、ああしたかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」
 女は瞳《ひとみ》を定めて、三四郎を見た。三四郎はその瞳のなかに言葉よりも深き訴えを認めた。――必竟《ひっきょう》あなたのためにした事じゃありませんかと、二重瞼《ふたえまぶた》の奥で訴えている。三四郎は、もう一ぺん、
「だから、いいです」と答えた。

 雨はだんだん濃くなった。雫《しずく》の落ちない場所はわずかしかない。二人はだんだん一つ所へかたまってきた。肩と肩とすれ合うくらいにして立ちすくんでいた。雨の音のなかで、美禰子が、
「さっきのお金をお使いなさい」と言った。
「借りましょう。要《い》るだけ」と答えた。
「みんな、お使いなさい」と言った。

雨の中、三四郎に近寄り、気持ちを確かめようとする美禰子。
美禰子の弁解は、野々宮さんを愚弄するためではなく、三四郎のことを思ってやったことだというものです。
三四郎は、美禰子の瞳の中に、あなたのためにした事だという訴えを読み取ります。
今まで鈍感だった三四郎にしては、めずらしいことです。しかし、答えは「だから、いいです」というものでした。

美禰子の気持ちをくみ取るものではなく、拒絶するものでした。
自分の三四郎への気持ちを拒絶され、野々宮を愚弄したと誤解され、弁解しても硬い態度を突きつけられる。
美禰子は絶望的な気分になったことでしょう。

美禰子は、「さっきのお金をお使いなさい」「みんな、お使いなさい」と言うしかなかった。
美禰子からすれば、これは三四郎との手切れ金です。
愛を拒まれた美禰子が、三四郎に見切りをつけた瞬間だったのです。

なぜ、こんなことになってしまったのでしょうか。
私の見立ては、三四郎にとって野々宮さんは、自分の所属する世界の住人であり、先輩だからです。美禰子の言動は、自分が愚弄されたのと同じだと受け止めたのです。
美禰子をめぐって恋のライバルに位置する人ではなかったのです。
美禰子は先にも見たように、三四郎が野々宮さんを意識するあまり、美禰子に近づけないことを知っていました。野々宮の存在が三四郎の心にブレーキを掛けており、それを外す目的で、取った行動でした。

三四郎と美禰子では、重きを置く次元が違っていたのです。
三四郎には美禰子との恋よりも、広田先生や野々宮さんの属する学問の世界が大事であったのです。自分も将来、その世界で活躍する住人にならなければならないと思っているからです。
美禰子は、自分の情熱、本能、感情生活の方を重視していたのです。
求めているものが違うので、二人はすれ違いばかりで、結局、交わることがなかったのです。
この展覧会で、それがはっきりとした形になり、破局を迎えたということです。

三四郎に、美禰子の気持ちをくみ取れる度量があれば、こんな不幸なやりとりは回避できたことでしょう。
この場面は、美禰子が気の毒で、涙を禁じ得ません。

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